ママも客もギブアンドテイク

さて、こう文字に起こしてみれば、ママと客との関係から見て、ずいぶんとクサい「人情横丁」ですね、と思われたかもしれない。その点は少し違う。古き良き昭和の、義理と人情の横丁みたいなものの関係性の裏には、上下関係や、御恩と奉公、というような、温かみよりは湿っぽい関係や体面を人に強いる強制性も潜んではいなかったか。

今横丁で見てきた関係はむしろ、一種乾いてさえいて、現代でも未来でも取り入れられる普遍性があると思える。客たちは、ママを慕い自発的にカウンター席に集い関係を築く。上も下もないし、客は何か義理ごとにしばられるような負荷もかけられていない。行きたいときに行き、嫌なら行かなくていい関係の上での楽しさ。この空気を醸成しているのは無論ママたちなのだが、彼女たちは自らの求心力のおかげだと誇ることもなく、つまり自らを権力化させることなく、ただ客がつとめて発する快闊な雰囲気に感謝してきた。

カウンターの中も外も、平等ということ。ママも客もギブアンドテイクの関係。

3人の子どもにそれぞれ家を建てたママもいた

いやあ今度は、ずいぶん「ママたちアゲ」するね、とも言われそうだが、ただ人と人がつながる商売の達人であるとの事実を示しただけなのだ。聖人ではない。神話のように書いてきた人との関係性も、今日も明日も夜の街で力強く生きる人々の所作、一側面でしかない。たとえば別な一側面、所作だって、そりゃ、ありますよ。私も年中感じるママたちの一習性が。それは……。

フリート横田『横丁の戦後史』(中央公論新社)
フリート横田『横丁の戦後史』(中央公論新社)

会計時の「ん?」。

実によく出会う。盛り場の古い店に一人で出かけても、何人かで行っても毎度キリよい額になることがある。これはまあ小さい「ん?」。それより、ん、んんん? とうなるしかない額をママたちから言われることがある。御厨さんもこの点、同意し、笑う。

「あるよね。ビール2本で(!)この値段……ん? 高くない? ってね。ママにそう言って、1週間くらい行かなかったこともあるよ、そしたら向こうから電話かかってくる(笑)」

呼び出しに応じると、「この前はゴメンね~」なんて言いながら、今度はうってかわってタダで飲ませてくれるママ。「この一手にまたやられちゃう」。実によく分かる体験だ。額は若干相場より載せた程度、ぼったくりなどと騒ぐ額ではないところがまたニクイ。それに嫌なら二度と店に行かなければ済む話。それでもまた足が向く。

「バブルの頃なんか、婆ちゃんたちは稼いだからね。とある横丁のママはね、90過ぎまで小さい店に立って、3人の子どもにそれぞれ家を建ててやったって」

このがむしゃらさにも輝くものがある。我慢と快闊を両立させながら2坪3坪の店で一人、利潤をしっかり追ってきた商売人の女将たち。だからこそ半世紀以上変わらず袖看板を掲げ続けることができ、飴色のカウンターも保存された。

(後略)

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