「介護にかける時間は無駄」と割り切ったほうがいい
【中村】一方で上野千鶴子さんなどは、ケアワークを社会化しなくてはいけないと主張されている。
【藤井】昭和の時代の日本女性は、家に縛られ続けるという苦難を負わされてきた。夫が企業戦士として働いている間、妻は子どものケア、夫のケア、さらに夫の両親のケアと、ずっとケアワークをして歳をとるわけです。
これではいけないと高齢者のケアも子どものケアも、なるべく社会で負担していきましょう、と。この発想自体はとても大事ですが、制度設計に問題があったのかもしれません。
【中村】社会で負担しようといっても、介護職って、やるとわかりますが、高齢者の介護、生活の手伝いをしている時間は無駄な時間。当事者からは反論があるでしょうが、なんの生産性もないし、人間的な成長もしない。
国は人生の先輩を手伝うことで自分も成長するといったポエム的な文脈に仕立てて、そのポエムが一般にも普及している。けど、実際はババ抜きでババを引くみたいな仕事。大局的にみたら、国の損失になるので若い人にはやらせないほうがいい。
【藤井】ケアといっても、先ほども触れましたが、高齢者の介護は子育てとはまたちょっと意味合いが違うのは理解できます。
【中村】高齢者を介護する無駄な時間を、誰が背負うのか。みんな本当のことを言おうとしませんが、「これは無駄な時間なんだ」とはっきり言えば、余計な部分は切り捨てて必要最低限に絞ることができる。生産性は高まるし、好転すると思う。噓をつくからトラブルが起こるし、人が潰される。
「敬老」の名のもとに若者の成長が阻害されてきた
【藤井】余計な部分って、たとえばどういうことですか。
【中村】たとえば歩けない高齢者が「トイレに行きたい」と言えばトイレに連れていってあげるとか、人が一人、老人の生活をつぶさに見ながら手伝ってあげる。高齢者は助かるし、ありがたいけど、援助者側にはそこには何もないでしょう。
儲かりもしないし、汎用性もない。家族なら仕方がない部分もあるけど、若い他人にやらせるのはあまりに残酷な気がする。だから若者を介護職から解放して、四〇代後半の男性がやれば丸く収まるなと思っていたところですね。
【藤井】コロナで命の選別、トリアージなどということも言われましたが、平時においては、生命の平等が大前提。老人であろうが子どもであろうが、命は平等に扱いましょう。
それが世界の基本的な人権意識で、これについては揺るがしがたい。ただ、中村さんとしては、高齢者のケアワークは従事してもスキルアップがあるわけじゃないし、従事者の創意や工夫を評価しない点を問題視しているんですね。
【中村】いままではそうした部分を「人権」とか「敬老」の名の下に、噓で塗り固めて乗り切ろうとしてきただけです。介護は公務の市場化でネオリベの代表格。問題視しないほうがおかしい。