だから「清水の舞台から飛び降りる覚悟」が決まってしまった

憤りは国内アクター間で攻撃的政策に向けたコンセンサスを生みだし、国家という集団が敵国へ攻撃行動をとることを可能にするが、この際、ハル・ノートが引き起こした憤りが、日本政府内部のタカ派とハト派の選好を対米開戦に向けて収斂させていた。

森山が記しているように、「ハル・ノートは、参謀本部のような開戦派から東郷のような交渉論者に至るまで、全ての日本の政策担当者を結束させ」、「戦争の場合は辞任すると心に決めていた東郷すら、職にとどまる決心をした」。すなわち「『ハル・ノート』が、指導者たちの心をひとつにし、恐ろしい戦争に向けて、清水の舞台から飛び降りる覚悟をきめさせるまでに至」ったのである(堀田)。

実際、11月27日に参謀本部の中堅層は、「之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり芽出度芽出度。之れ天佑とも云うべし。之に依り国民の腹も固まるべし。国論も一致し易かるべし」と記している。

12月1日の課長会議で軍務課佐藤課長は、「われわれがかねてから抱いていた心配、即ち米の懐柔政策により、我が国論の一部に軟化を来たし、大切な時に足並みが揃わぬようなことがあっては大問題だとおもっていたが、かくの如き強硬な内容の回答を受け取ったことにより、国論が一致することが出来たのは洵に慶賀すべきことである(金原日誌)」と述べている(仮説③)。

戦前日本の行動を「悪」と断罪したい左派にとっての不都合

以上、真珠湾奇襲を進化政治学の怒りの報復モデルの視点から再考してきた。ところで、上記の説明がなぜ「不都合な真実」なのであろうか。いうまでもなく、このポリティカル・コレクトネスをめぐるホットボタン(hot button)が、本稿のインプリケーションである。

結論から述べると、本稿の主張が「不都合な真実」なのは、①戦前日本の行動を「悪」と断罪したい政治的左派、さらには②戦前日本の戦略的合理性や真珠湾陰謀論を主張する政治的右派、あるいは③真珠湾奇襲という歴史的事象を掘り下げて研究する歴史学者、各々の神経を逆なでする可能性があるからだ。

政治的左派にとり「不都合」なのは、仮に人間に戦争を志向する本性(この際、憤りに駆られた攻撃の衝動)があるなら、戦争を起こした当事者の責任を追及することは不毛となるからだ。これは殺人者やレイプ犯を捕まえ、彼らの脳に攻撃行動を熾烈化させる決定的な生物学的欠陥があると分かったとき、当該主体を責められるのかといった問題と同じである(決定論と自由意思)。

こうした点を踏まえ、政治的左派は本稿の科学的主張に不穏な含みを嗅ぎつけるかもしれない。