非戦派を開戦派に鞍替えさせたのが、ハル・ノートだった
怒りの報復モデルによれば、1941年12月8日の時点で日本が真珠湾奇襲をしたのは必ずしも決定づけられていないことが分かる。というのも、日本の指導者が主観的に不当とみなすハル・ノートをアメリカから提示され、憤りが喚起されてメンタルコーディネーションが達成されなければ、真珠湾奇襲という集団的意思決定が下されるのは困難だったからである。
もちろん、そのことは日本政府内の全エリートが戦争に反対していたということを意味しない。より正確にいえば、非戦派と開戦派の間の対立があり、それを開戦派に決定的に有利にした――実際、非戦派をして開戦派に鞍替えさせた――のが、ハル・ノートだったというわけである。そしてこのことは以下に示すように、一次史料という社会科学が扱える「データ」によっても裏付けられている。
11月26日、アメリカは日本にハル・ノートを手交したが、それは、①ハル四原則の無条件承認、②日本の中国・仏印からの全面撤兵、③国民政府の否認、④三国同盟の空文化を求める強硬なものだった。その結果、憤りに駆られた日本の政策決定者は対米開戦を決意した。
駐日米国大使ジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew)は戦後、太平洋戦争勃発の「ボタンが押されたのは、ハル・ノートを(日本が:筆者注)接到した時の頃だというのが、ずっと私の確信である」と証言している。
国論の一致に貢献する意味でも、まさに「天佑」だった
また駐日英国大使ロバート・クレーギー(Robert Leslie Craigie)は最終報告の中で、「米国政府の日本への『最後回答(final reply)(ハル・ノート:筆者注)』は日本が拒否することが確実な条項からなっていた」と述べている。
実際、クレーギーは、「日本の開戦決意は27日頃(ハル・ノート受領日)に下され」、「日本の11月20日の妥協案(乙案:筆者注)が交渉の基礎になっていたら、この決定は下されていないか、いずれにしても延期されていた」と指摘している(仮説①)。
ハル・ノートは日本指導者の攻撃的選好を上昇させただけでなく、戦争を望む強硬派にとり、対米開戦に向けて穏健派を説得するための政治的道具となっていた。
歴史家の森山優が的確に論じているように、「ハル・ノートを歓迎したのは陸軍を中心とする開戦論者たち」で、実際、「アメリカが譲歩を小出しにしてくれば、日本は戦争に踏み切れず、戦機は失われる」というのが、「統帥部が最もおそれたシナリオであった」。
こうした点について波多野は、「ハル・ノートは開戦決意を最終的に固めるうえでも、また国論の一致に貢献する意味でも、まさに『天佑』(十一月二十七日機密戦争日誌)であった」と結論づけている(仮説②)。