東条首相に変わっても、開戦が前提だったわけではなかった

アメリカからの石油全面禁輸後、対米開戦の蓋然性は大幅に高まったものの、日本政府は依然として交渉妥結も視野に入れた対米交渉を続けていた。9月6日の御前会議で、10月上旬頃までに外交交渉が成立する目途がない場合、開戦に踏み切るとする「帝国国策遂行要領」が定められた。

実際、近衛から東条に首相が代わっても、開戦内閣が前提とされていたわけでなかった。むしろこれまで強硬派とみられていた東条は、天皇の開戦回避の希望をくみ取り、外交交渉重視の姿勢をとるまでに態度を軟化させていた。

11月1日、東条首相は、①戦争に突入することなく臥薪嘗胆する、②直ちに開戦を決意する、③戦争決意のもとに作戦準備と外交を並行させる、という3つのオプションを提示して、最終的に③が採用された。

11月5日の御前会議で、甲案・乙案を含む「帝国国策遂行要領」が提出され、その最後に東条は、「外交と作戦の二本立てとしたことは、アメリカに『決意』を示したものであり、アメリカにその『決意』が通じたならば、「其時期こそ外交的の手段を打つべきだと思う」と述べた。

有力な歴史家波多野澄雄が記しているように、「アメリカが真に太平洋の平和を望むならば、さらにそこに日本側の『決意』を示すならば、アメリカも再考するかも知れない。そこに一縷の望みを託すほかはなかった」のである。

ハル・ノートが引き起した日本の政策決定者の憤り

最初に提示した甲案は予想通り拒否され、続いて11月20日、乙案がアメリカに提示された。同案をめぐりアメリカ国務省は連合国内部で協議を始め、日本はその回答を待つことになった。「ハルは米側の通信情報(マジック)によって、日本との交渉決裂が戦争を意味することをすでに知っていたため、妥協的な暫定協定案を用意していた」ので、「そこには日米の衝突を回避できる可能性がわずかながらも生じていた」(小谷賢)。

こうした点について、太平洋戦争に至る日米交渉をめぐる研究の第一人者須藤眞志は、「東條内閣もアメリカ政府も、日米戦争をぎりぎりのところで避けようと努力したことは事実である」とまとめている。

それでは、こうした開戦回避に向けた動きやその実現可能性にもかかわらず、日本の政策決定者が真珠湾奇襲を決断した直接的な引き金とは何だったのだろうか。

政治学者リチャード・ネッド・ルボウ(Richard Ned Lebow)が論じているように、第一次世界大戦がサラエボの大公暗殺テロ事件という触媒(catalysts)で勃発したのならば、太平洋戦争勃発にかかる触媒とは一体何だったのだろうか。

社会科学理論はこれまで日本の対米開戦の深層要因として相対的パワーの衰退やパワーシフト、中間要因として陸海軍間抗争、軍国主義などに言及してきたが、その直接的要因については依然として十分な理論的説明を与えられていない。

そこで、進化政治学の怒りの報復モデルが重要になる。同モデルによれば、日本の対米開戦の直接的要因はハル・ノートが引き起した日本の政策決定者の憤りであった。堀田が記しているように、「開戦準備が着々と進む日本には、しかし、そのリスクの大きさゆえ、まだ迷いもあり、最後の一押しが必要だった」が、その一押しがハル・ノートのもたらした憤りだったのである。