「稼ぐ」「貯める」から「大きく増やす」へ

バフェットは言う。

「私は小さな雪の玉をずいぶん若い時から固めた。10年遅く固め始めたら、今ごろ山の斜面のずいぶん下にいただろう。だから、私は学生たちにゲームの先を行くように勧める。何も大がかりにやることはないが、ゲームのあとをついていくよりずっといい」
前出『スノーボール(改訂新版)ウォーレン・バフェット伝

バフェットはこのように幼い頃から「稼ぐ」ことと、「貯める」ことに熱心な少年だった。それはバフェット家の言わば伝統のようなものだった。こう話している。

「莫大な遺産を遺したバフェット家の人間は1人もいないかもしれないが、何も遺さなかった者もいなかった。稼ぎを使い果たすことなく、常に一部を貯めておいた。それでずっとうまくいっているのだ」
前出『スノーボール(改訂新版)ウォーレン・バフェット伝』

バフェットが親から受け継いだのは「使う金は入る金よりも少なく」という考え方だ。それは生涯変わることのない考え方だが、バフェットの場合はそこに「複利式の考え方」が加わったことで「大きく増やす」ことができた。

姉をパートナーに11歳で株を購入

1941年、11歳のバフェットはコツコツと蓄えた120ドルを元手に、姉のドリスをパートナーに引き込んで、シティーズ・サービス・プリファードという会社の株を一株38ドル(端数は四捨五入)で3株ずつ購入した。3株で114ドルだ。

幼い頃から株に興味を持ち、10歳で父親に連れられてニューヨーク証券取引所を見学に行くほど関心の高かったバフェットは、普段から父親のオフィスに行っては株券や債券を楽しそうに見つめ、黒板の株価が次々と更新されるのを見て楽しんでいた。自宅では自分なりに株価チャートをつけ、何か隠されたパターンがあるのではないかと考えるのが大好きだった。

それは幼いアインシュタインが父親にもらった方位磁石を手に「なぜ一定の方角を指すのか」を考え続けていたのとよく似ている。バフェットにとっての方位磁石は日々変化する株価や株価チャートだった。

しかし、いくら関心はあっても、11歳のバフェットに投資すべき株を選ぶ力はなかった。結局は「父親が薦めているから」という理由で投資先を決めることになったが、たしかにバフェットが言うように「よく分からない」ことはリスクとなった。