効果的な選挙活動になった

月給20万円。夜10時から朝9時までの深夜勤務を週2回もこなし、スマイルを振りまきながらレジに向かった。客が途切れたら、商品の陳列や駐車場の掃除に励む。2カ月もすればスニーカーの底はツルツルになり、使い物にならなくなった。緑色の制服を着ている間は一息つく間もなく、息子世代のアルバイトと一緒に店内を動き回ったのである。

図らずも、それが効果的な選挙運動となった。

村長選は2017年6月18日に行われた。3240人の有権者のうち86.36%の人々が投票所を訪れた。結果は、連続3期当選の現職村長(取材当時66)が1312票、新人の森田匡彦が1449票。一介のコンビニ店員が薄氷の勝利を手にし、80人の役人集団の先頭に立つリーダーになった。

月の給料は68万2000円。コンビニ時代の3倍以上だ。

70年間、選挙戦は5回しかなかった

きょうび、小さな自治体で森田のような新人が現職を破るケースは全国でも珍しい。そもそも、現職によほどの落ち度があったか、現職が引退して新人対決にでもならない限り、町長や村長は無投票で決まることが多い。

総務省によると、2015年にあった町村長選のうち、全体の43.4%に当たる53町村が無投票だった。17年には十勝地方の19自治体のうち7町村で首長選が行われたが、5町で無投票、1町で新人対決。新人が現職を蹴落とす稀代の番狂わせが起きたのは、元コンビニ店員が勝利した中札内だけだった。

1947年の開村から官選村長の時代が10年続いた後、村長選は16回もあったが、戦いが成立したのは81年を含めてたったの5回に過ぎない。

もう1度書く。開村から70年で、5回だ。

コンビニ店員から村長になった森田匡彦。狭い村長室の机には『地方行政のヒミツ』(小西砂千夫著、ぎょうせい)が置いてあった。
筆者撮影
コンビニ店員から村長になった森田匡彦。狭い村長室の机には『地方行政のヒミツ』(小西砂千夫著、ぎょうせい)が置いてあった。

エリート校に進学も「落ちこぼれだった」

「1981年の村長選の時、私は15歳でした。あれ以降、村長選挙というものを見たことが本当にありませんでしたね」

そう話す森田は1966年、村役場に勤める父のもとに3人きょうだいの長男として生まれ育った。小さなころから出来が良く、帯広にある十勝のエリート校、道立帯広柏葉はくよう高校に進学。1学年上の先輩には、ドリームズ・カム・トゥルーの吉田美和がいた。

国立の室蘭工業大学電気工学科を卒業後、帯広に本社がある十勝毎日新聞社に記者として入社した。社会部記者だった25歳のころ、帯広警察署で働いていた女性と出会い結婚。4人の子どもをもうけた。

森田は「私は落ちこぼれだったんです」とも語る。その言葉の通り、記者人生は順風満帆ではなかった。報道各社の担当記者が激しい競争を繰り広げる事件取材が性に合わず、記事の見出しやレイアウトを決める内勤の整理部門に異動。その後は地方勤務が続いた。

ある日、元村長から呼び出され…

決して恵まれたほうではなかったサラリーマン暮らしの中、村長選出馬につながる転機は2度もあった。

1回目は、故郷・中札内の担当記者になったころに訪れた。渡部の次に村長になったばかりの小田中刻夷ときひろは父の元上司だった。そんな縁もあって、担当記者の森田に対する村長の覚えはめでたかったようだ。

もう一つの転機は、40歳を目前にして村に新居を構えたことだった。

4人の子どもの成長に従って、アパート暮らしにも限界を感じるようになった。そこで、森田は一軒家を建てると決断。別の町にある妻の実家の庭先に構えようとした矢先、広大な畑地に囲まれた中札内の離農跡地が売りに出された。森田はすかさずその土地を買い求め、再び中札内村民になった。

それからさらに7年後。森田は運命が変わる瞬間を迎えた。