李登輝氏が総統だった当時、私は台湾の経済顧問をしていた。まず、しきりに日本に行きたがっていたことが印象に残っている。

72年のニクソン米大統領の訪中をきっかけに、中国は国連安全保障理事会の常任理事国となり、それまで常任理事国だった台湾は国連から追い出された。日本政府は中国との国交を回復する一方で、台湾とは断交したために現職総統の李登輝氏は来日できなくなってしまったのだ。

「望郷の念」を何とか叶えてあげたくて、私は八方手を尽くした。私人としてなら入国可能と考えて長野にある私の別荘にプライベートで招待したい、という手紙を渡して来日を企画したこともある。外務省や政治家と掛け合ったが、当時、中国利権を一手に握っていた自民党田中派の政治家に「現役総統は不可」と阻まれた。

京大で同期であった住友銀行の磯田一郎元会長やサントリーの鳥井道夫名誉会長などに「同期会を開いてくれ」と頼んだこともある。同期会に参加するという名目での来日を画策したのだ。私は親しかった小渕恵三元首相にも「同期会ならどうか」と頼んだが、「私も(田中派の流れをくむ)竹下派だから、台湾問題には手が出せない」と言われて、これも実現せず。結局、総統在任中は1度も来日できなかった。沖縄懇話会でも、まさに隣人中の隣人ということで総統の訪問を企図したが成功せず、代わりに同じ台湾の政治家である江丙坤こうへいこん氏に来てもらった。

念願が叶ったのは総統退任後の2001年。心臓病治療のために来日、日本政府は人道的措置で入国査証(ビザ)を発給した。その後も何度か来日して、芭蕉の「奥の細道」を辿ったり、大阪造幣局の桜の通り抜けを楽しんだりしている。

日本で教育を受け、日本語も堪能な李登輝氏は、自他共に認める親日家であり、日本の台湾統治にも肯定的だった。「恨み」の文化が根強い韓国では日本の植民地支配に否定的な声が圧倒的だが、台湾では日本統治時代が台湾の近代化、工業化のプラスになったと考える人が非常に多い。そうしたメンタリティを方向付け、定着させたのが李登輝氏なのである。

今思い出しても深く印象に残る李登輝の言葉

李登輝氏は台湾出身の本省人でありながら、外省人(共産党との内戦に敗れた国民党とともに大陸から台湾に渡ってきた人々とその子孫)中心の国民党政権において初めて党主席、総統に上り詰めた。さしたるケンカもしないでこれを成し遂げたのは、李登輝氏の老練な政治力と絶妙なバランス感覚のなせるわざだろう。立法院(議会)のほとんどを外省人が占めていた状況で民主化を推し進めて、(人口の少ない外省人には不利な)総統選挙の直接選挙を実現したのも同じだ。