高校生は「エリートではない」自覚をもつ時期

無遅刻・無早退・無欠席を成し遂げた皆勤賞、あるいは部活のキャプテンや学級委員長などを経験できる高校生は、ごく一部に過ぎません。多くの高校生は、そういう生徒に対して、あるいは学校や教員というものに対して、複雑な感情をもちながら、学校の秩序を受け入れながら過ごしているのだと思います。

「学校っておかしくね?」「先生はオレの名前も覚えてないのに……」という、エリートとは認められていない感からの自意識をもつ生徒が少なくないのが、高校生というものかもしれません。

普通の生徒はありのままの自分を理解してくれる大人を待っているのではないでしょうか。いい教員とは、生徒の本音・弱音・愚痴を受け入れられる大人なのだと思います。もちろんその前に、高校生の生徒は「この大人には、私の弱みを見せられるだろうか」という葛藤を経て、おなかを見せるかどうか決めるでしょうから、いい教員になるのはたいへんなことだと思います。

「他人と比べない」自己評価で誇りをもってほしい

そこで、私が高校生に言いたいことは、「他人と比べる必要はない」「他人と比べられても、気にする必要はない」ということです。これは、日本社会を覆っている空気の問題なのかもしれませんが、相対評価に対する感度が、敏感すぎると、私は思います。年少のときから、それぞれの個性を尊重した多様な評価がなければ、生きにくい社会になってしまいます。そのことをおそれます。

だからこそ、間近で見守っている生徒たちに送る言葉は、他人との比較ではなく自分自身と向き合った結果としての「自己ベストの更新」なのです。

私は、生徒一人ひとりに自分を誇らしく思える高校生になってほしいと願っています。誇りとは、他人からの作用もあるとは思いますが、結局は自己評価だと思います。そのとき、有限な存在である自分自身が、何をもって成り立つのか。自分として、自分のベストを尽くそうとしたのだという実感以外、誇りをもって生きる根拠はないと思います。

自己評価とは、もちろん、絶対評価。他人と比べてどうかという次元ではありません。自分の感性、体力、良心との対話です。絶対評価は、高校生たち一人ひとりの心のなかにあります。それを「特別に教えてあげるよ、あなたにならね」と教えてくれる場面を心待ちにして、一人ひとりの教員は、今日も、教員をしていると思います。