山内容堂(ようどう)は、土佐藩最後の藩主ではない。安政の大獄で隠居謹慎処分を受けたさい、養子の豊範(とよのり)に跡を嗣がせ、実権は容堂が握りつづけた。

「容堂」は号で、諱(いみな)は豊信(とよしげ)。

ほかに、「鯨海酔候(げいかいすいこう)」「酔擁美人楼」などの号もあった。

その号のとおり、女好きで、老中阿部正弘の死後、その妾を呼んだ。松平春嶽が「不浄ではないか」と言うと、「風呂に入れればいい」と笑ったという。

酒好きで知られる。好きな銘柄は「剣菱」。外出するときも酒を入れた瓢箪を必ず腰からブラ下げ、一日一升飲み続けたとされる。NHK大河ドラマ『龍馬伝』でも、容堂がつねに酒を飲み続けているのは、そのためだ。ドラマのなかで、容堂は、長宗我部遺臣の子孫「下士(かし)」を嫌っているが、じっさいは、特例は認めていた。

ペリーが来航したとき、幕府から回されてきたアメリカの国書を読んだ馬廻りの吉田東洋を参政に抜擢したのは好例。

その東洋が、水戸学で知られる藤田東湖(とうこ)の書を読んで感激し容堂に紹介した。学者を招いて話を聞くのが好きだった容堂は、すぐに東洋を東湖のもとに派遣して迎えた。

藩邸で酒宴となり、容堂も東湖も、酔うほどに談論風発。容堂が側近に問うた。

「戦国武将でいうと、余はだれだと思う?」
 「毛利元就でございましょう」
 「東洋なら織田信長と言うぞ」

不機嫌になった容堂を見た東湖に「若い若い」と冷やかされたという。

また、勝海舟が「龍馬の脱藩罪を許してくれ」と頼んできたときには「まあ一杯飲め。飲まねばわしは答えん」と返した。

号が「容堂」になったきっかけも東湖だった。容堂が掲げている「忍堂」の扁額(へんがく)を見上げた東湖が「忍ぶのではなく、衆を容(い)るることこそ大名の徳」と説いたのに関心し、以後、「容堂」に改めた。

尊王攘夷派の志士たちは容堂のことを「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と評した。一見、風見鶏のようだが、幕末の情勢は、いつ、どっちに転ぶかわからなかったため、情勢を観望し、土佐藩がいかに動くべきかを見極めていたというべきだろう。

容堂が「賢候」たる最たる行動は、慶応3年(1867年)10月3日、「大政奉還」建白書を幕府に提出したことだ。これにより幕府の「大政」は朝廷に「奉還」されることになった。

ご存じのとおり、容堂に建白書を上申したのが後藤象二郎(しょうじろう)。その後藤象二郎に「原案」となる「船中八策(せんちゅうはっさく)」を渡したのが坂本龍馬だ。

「船中八策」とは――。

(1)大政奉還と王政復古
(2)上下議会による議会政治
(3)平等な登用と無駄な官位廃止
(4)不平等条約改正
(5)憲法制定
(6)海軍力増強
(7)近衛兵の創設
(8)金銀交換レートの設置

そのほとんどは、明治になって実現されていることからも、龍馬の「先見の明」が知れる。

容堂の建白書提出から1カ月半のちの11月15日に暗殺される龍馬は新政府に入るつもりはなかったが、建白書を読んだ徳川慶喜は「新政府でも実権を握れる」と思い込み、「大政奉還」に踏み切ったが、新政府にはいることは許されなかった。

容堂は、松平春嶽とともに慶喜を擁護しつづけた。だが、すでに公家の岩倉具視、薩長を中心とする討幕派に押され、慶喜は新政府から排除される。これに怒った慶喜は「鳥羽・伏見の戦い」を起こす……。

討幕に邁進し、新政府の基礎を築いたのは、岩倉具視、薩長にちがいないが、時流を見極め、部下が上申してきた「大政奉還」建白書を吟味、熟慮し、幕府に提出した容堂の「断行」は特筆すべきだろう。