経済損失で苦しんでいる方が圧倒的に多いのではないか
新型コロナウイルス(COVID-19)の流行によって、世界中の人々が大きな被害を受けた。コロナ禍と呼ぶ人もいる。「禍」(わざわい)は、人間にはどうしようもない天災や病気でおきてくる喜ばしくない事柄を示す。
日本では、コロナによる損害はウイルスそのものによる健康被害よりも経済停止や政治的な要素による被害が大きかった。だから、「コロナ被害」と呼んでもよいかもしれない。
日本では、自分がコロナウイルスに罹患して苦しんだ人よりも緊急事態宣言による経済損失に苦しんでいる方が圧倒的に多いのではないだろうか。政府の補助は額が不足し遅延し、子供たちは不十分な教育で受験に向かわなくてはならない。小学校から大学生まで、教育のデジタルデバイドや経済的困窮に苦しんでいる。
僕は、結果論で言っているのではない。15年以上続けたブログ内でコロナ流行当初からの記事を読んでくださった方々のご協力によって、このコラムを記すことにつながっている。
「人命が何より大切」という思考停止
中国人観光客であふれていた秋葉原のクリニックに通勤し、毎日働いてきたので都心の医療的日常をつぶさに目にしてきた。救急外来に勤務する友人たちとメールでやりとりしてリアルタイムで内部の情報も聞いていた。クリニックではコロナ感染者を積極的に受け入れた大学病院から派遣される若い医師と相談しながら働いてきた。
その一方で、国家予算100兆円のなんと10%にあたる予備費10兆円がいろいろな対策にあてられるという。超法規的に恣意的に分配することが可能な予算だそうだ。僕は是非は問わないが、そんな予算のつけ方があるのかと驚いた。それが可能になったのは国民の恐怖と「人命が何より大切」という思考停止だったのではないだろうか。
このような国民が被った未曾有の被害と得たものの収支決算の総括を専門家委員会はしていない。それどころか、議事録が残されていないことも報告された。責任も総括も消滅した。
日本は、阿鼻叫喚のニューヨークとは全く異なる落ち着いた様相だったはずだ。総合病院では、予定入院を延期し外来を止め入院ベッドの空床を準備した。その代わり紹介患者の受け入れも停止していた。間接的に具合がわるくなった患者や死亡者は統計にのぼらない。
2020年6月現在、日本はとても落ち着いている。欧米や中南米などは、ウイルスによる被害が大きかったがピークは過ぎた(※1)。