フェアな思考とは、自分自身の基準に照らして矛盾しないかを確かめること
フェアな思考というフレーズは、巷でよく語られるが、その具体的な中身については言及されないことが多いように感じる。インテリたちの多くは、「フェア」という言葉を抽象的に用いるが、それがいったい何なのかを具体的に語らない。
僕はこのメールマガジンと連動する形で、「橋下徹の激辛政治経済ゼミ」というオンラインサロンを主宰している。オンラインサロンでは、メールマガジンなどを題材としてメンバーの方々と直接の議論を展開しているが、議論している人の主張が平行線になることも少なくない。
そのときに僕が介入して、「これは立場・価値観の違いなので、ここからはいくら議論してもお互いの主張の隔たりは埋まりませんよ」というコメントや、「その相手への批判はフェアではありません」というコメントを出すことが多い。
このようにお互いの主張が平行線になったときに、それを収める重要な方法の1つが「フェアな思考」である。
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簡単に言えば、「あなたがこれまで言ってきたことからすれば、あなたの今回の主張はおかしいですよね?」「あなた自身の基準からすると、相手の言い分も認めなければならないですよね?」というように、すべて「あなた自身の中で」完結するのがフェアな思考というものだ。あなたの外にある絶対的な正解を求めるものではない。
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他方、アンフェアな思考とは、自分が持っている結論を導くために、自分の中に設定した基準をコロコロと都合よく変えてしまう思考である。前回は○○という基準で主張していたくせに、今回は××という基準になっている、という具合に。
相手に対する好き嫌いの感情によって自分自身の基準を変えてしまうのがアンフェアな思考の典型例だ。
京アニ事件でいえば、青葉容疑者が憎いということだけで、適正な刑事裁判手続きをすっ飛ばしてもいい! と主張するのはまさにアンフェアな思考である。
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