コロナ問題を機に「コメンテーター不要」の思いが強くなった

日頃からお付き合いがありますから、出演交渉も簡単ですし、番組サイドが「どんな話をしてもらいたいのか」ということも心得てくれていますから、確かに都合がいい。でも、その人は本当はその分野について特に詳しいわけじゃない。

テレビの業界人はついつい「話がわかりやすくて」「見た目が良かったり爽やかだったりして」「テレビ的なことを理解してくれている」人を優先して番組に呼びがちです。専門家の場合もそうですが、「コメンテーター」と呼ばれる人たちは特にそうです。

僕は以前から、「ニュースや情報番組にコメンテーターは実はいらないのではないか」と少し思っていて、新型コロナウイルスの問題を契機に、その思いが一層強くなってきています。

取材者を泣かせる「ピントがズレたコメント」

なぜ以前から「コメンテーターはいらないのでは」と思っていたかというと、僕がニュースや情報番組のディレクターをしていた時に、何度も悔しい思いをしたことがあるからです。

例えば、ひとつの事件について、ディレクターとしてかなりの日数をかけて勉強をして、取材・撮影・編集をしてVTRを完成させて放送したのに、スタジオでコメンテーターに「ちょっとピントがズレたような意見」を言われてしまい、僕が現場で知った問題点や、伝えたかったこととは少し違う方向に結論づけられてしまったりすることがたまにありました。

そういう少しズレた意見をいうコメンテーターは、大概そのニュースの専門家ではない場合が多かったように思います。ベテラン記者ですが、ずっと政治を取材してきたはずの人に、事件について少しズレたコメントをされてしまった……となると、その事件の現場に行き、たくさんの関係者から話を聞いたディレクターはとても悔しい。

そもそも、ひとりの人間が専門分野を超えてどんな話題にでも「個人的意見」をいう「コメンテーター」というシステムはニュース番組には要らないのではないか、と考えるようになったのです。

視聴者は「事実」と専門家の「科学的知見」を求めている

これが「バラエティ番組」や「トーク番組」であれば話は別です。ひとつの「ニュース的な話題」をテーマとして、いろいろな立場の人がそれぞれの意見を言い合い、論争をすること自体を楽しむ番組も、それはそれで「アリ」だと思います。

この場合、あえて「専門家ではない一般の人」の意見や、「別ジャンルの専門家の見方」なども意味はあると思います。また、「ニュースの性質」によっては、ニュース・情報番組の中でもひとつの問題についていろんな人が意見を闘わせる「激論コーナー」のようなものが有効なこともあると思います。

例えば、「憲法改正の問題」のように、みんなで議論をすることが大切で、様々な立場の人の考え方を知ることで自分もより一層考えを深めることができるような問題については、そうした演出方法は有効だと思います。