なぜエジソンは教育システムを変えられなかったのか

エジソンは、1877年に蓄音機、1879年に白熱電球、1891年に映画撮影用カメラと、世界を変える発明をすでに成し遂げていた。だが、教育を進歩させることはかなわなかった。

人類史上最高の発明家のひとりですら教育改革を阻む壁を乗り越えられなかったとしたら、いまの私たちにその壁を克服できる望みはあるのか? 何を変えられるというのか?

それを知るために、まずは教育映画というアイデアの何が悪かったのかを探ってみようと思う。実は、エジソンの発明が失敗に終わると予言していた知識層がいた。

とりわけジョン・デューイという心理学者が有名で、エジソンの発明は斬新だが実用的でないと異議を唱えた。学習は、子供自身が参加して双方向のやりとりを通じて学ぶのがベストであり、子供が実際に何かを「する」ことが大切だと彼は指摘している。ただ座って映画を観るのでは、ただ座って人の話を聞くのと変わらない。

本物の学習は人とのやりとりを通じて生まれるものであり、黙って観るという受け身の姿勢ではなく、自ら参加する積極的な姿勢が必要だというのがデューイの主張だ。

テクノロジーと学習の融合を成功させるには

エジソンが失敗した後も、彼の意志を継いだ多くのビジョナリーや発明家や改革者が独自の「次にくるもの」を発表したが、エジソンと同様にいずれも失敗に終わった。なぜか? デューイの主張が正しかったからだ。退屈なコンテンツを別の媒体に移したところで、退屈であることに変わりはなく、学習体験は何も改善しない。

テクノロジーに教育を改善する可能性が秘められているといっても、実績のある学習法の完成度を高める目的や、その学習法を使う教師の指導力を向上させる目的で使われなければ、テクノロジーの活用はしょせん失敗に終わる。

私たちが望むスケールで、私たちが望む教育の未来を確かなものにするためには、テクノロジーと学習の融合が不可欠だ。幸い、新たに生まれた(生まれようとしている)イノベーションにより、この2つの融合は間違いなくはじまっている。

おかげで教育の未来は、エジソンが発明して世界を本当に一変させた白熱電球のように明るいといえる。ただし、テクノロジーと学習の融合を成功させるには、変えなければならないものがある。