※本稿は、ジョン・カウチ、ジェイソン・タウン『Appleのデジタル教育』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
トーマス・エジソンでさえ、教育改革には失敗した
いまは急速に技術革新が進む世の中だ。毎日のように、何かを変える新たな発明品を携えた新興企業が、どこからともなく現れる。創造力にあふれ、最新テクノロジーを手にしたビジョナリー(先見の明のある人)は世界中にいて、彼らが体制を破壊し、効率の悪いデザインを見直し、時代遅れになったシステムを更新し、産業全体を立て直してくれた。
しかし、そこに教育は含まれていない。20世紀の間、教育システムに革命的な変化は一切起きていない。地域の学校やクラス単位レベルで有望な成果をあげた例はあっても、もっと大きなスケールでの新しいことは何もないように思える。
大志ある発明家が教育改革にのりだしたときの話をしよう。
彼はすでにいくつもの発明で成功を収めていた。彼もまた、私と同じく教科書や授業を退屈に感じていたひとりで、もっといい教え方があるはずだと思っていた。そして、現行の教育システムは短絡的であり、リワイヤリング(配線のやり直し)が必要だと気づいた。
彼は当時の最先端技術を使って、誰も見たことがないような何かの発明に取り組んだ。
発明品が完成すると、彼もそれを知ったメディアも大いに気に入り、教育を永遠に変えるものの誕生だと宣言した。
退屈な教科書は、もう過去のものだ。全生徒が平等に学習できるようになり、従来の教室につきものの、きれいに並んだ机、始業のチャイム、教室の前にひとり立って授業をする教師は間もなく消滅する、そう思われた。その発明は「教育映画」と呼ばれるもので、トーマス・エジソンという男が1911年に完成させた。
それから1世紀以上たつが、彼の発明があまり普及しなかったのは明らかで、学校やクラスは当時からあまり変わっていない。どうして普及しなかったのか?