教育は「修正」と「交換」ではうまくいかない

教育の改善で最も多いのが、限定的かつ短期的な処置の適用だ。エジソンの教育映画もこの一例といえる。このような処置は、特定の要素に絞って改善しようとするときによく使われる。

教育映画は、学習の楽しさや面白さを高めようとした。いまは「解説動画」と呼ばれる教育動画がその役割を果たしている。退屈な授業の内容をドキュメンタリー調のアニメーションに変えたとたん、授業が面白くなる。そういう動画が面白くてためになるのは確かだが、導入されるようになって何十年もたつというのに、学校を通じての教育のあり方を大きく変えるにはいたっていない。

教育に関して修正が必要な部分は、ソフトウェアの世界で「バグ」と呼ばれるものに相当する。コンピュータのバグはコードの誤りを意味し、システムに思いがけない動作を起こさせる。修正するには1からプログラムを書き換えることもできるが、あまり効率的ではない。だからエンジニアは、「パッチ」と呼ばれる小さな修正プログラムで応急処置を施す。

これと同じことが教育の場でも行われている。教育のバグが見つかったとき、パッチで応急処置をするのが手軽で簡単だ。システムそのものを修正するのは大変だが、テストの回数を増やす、1クラスあたりの人数を減らす、カリキュラムの構成を変えるといったことならすぐにできる。

誤解しないでもらいたいが、応急処置は必ずしも悪いことではない。鼻血が出て手近にティッシュがあれば、出血を止めることにはならないとわかっていても、誰だって手にとって鼻に詰める。

教育の応急処置が無意味だと言いたいのではない。できることは限られると言いたいのだ。しかもその手の努力は、効果の有無がほとんどわからない程度の小さな修正で終わることが多い。パッチでは小さすぎて、教育の根本的な問題はほとんど修正できない。それがデジタルネイティブの直面している問題となれば、なおさらだ。

世代に即した教育に変えるべき

パッチの次に多いのが、極端な提案だ。要は、公教育はシステムとして破綻しているので、公的な規制を受けない私立学校やチャータースクール、オンライン教室といった、まったく別の何かに交換する以外に道はないという考え方だ。

教育の場合も、ほぼ毎年のように、現行の教育システムを捨てて1から新しいものを始める必要があるとの声があがる。近年では、私立学校など別の教育モデルのほうが優れているとして、公教育そのものの見直しが求められるようになった。

確かに、成功を収めている教育モデルはあるが、実際のところは取って代わろうとしている現行のシステムと大差ないものがほとんどだ。それにテクノロジーと同じで、複雑で費用もかかる。新たな提案が現行システムより実際に「優れている」という保証はどこにもない。ただ単に「違う」だけの場合もある。

テクノロジーが発達するスピードの加速に伴い、新たな世代が生まれるたびに彼らの親世代とは違う世界になり、ニーズも当然それぞれの世代で異なる。

この問題を本気で解決したいなら、そのときどきの世代について知り、その世代にふさわしい、その世代に即した教育に変えるしかない。