いまのネット社会はみんなで集団リンチの快楽を貪っている

いまのインターネット社会は、ひとつのムラ社会になっていて、週に一度「生贄いけにえ」を決めて石を投げて、みんなで集団リンチの快楽を貪っているわけです。そして、そのムラ社会の中で、「生贄」に対して一番うまく石を投げた人が座布団をたくさんもらえる大喜利のようなものが進行している。こうした閉じた相互評価のネットワークの中でいじめ大喜利ばかりやっていると、どんどん情報の質も、ユーザーの質も低くなってしまう。

先日の「あいちトリエンナーレ」の問題も、表現の自由や地方アートのあり方といった本質的な問題よりも、誰それが左派のヒーローになるのが気に食わないとか、このエリアのボスは知事なのか市長なのかはっきりさせたいという人間関係の問題が先行してしまう。誰がこの問題によって株を上げて、下げるのかという問題のほうが大きくなって、相対的に本来の問題を覆い隠してしまい、状況が混乱していったわけです。

こんなことばかりやっていると、メディアや言論人はタイムラインの潮目を読んでどう反応すればフォロワーや閲覧数が増えるかしか考えなくなるし、一般のユーザーも潮目を読んで、いま「叩いてもOK」な人を叩いて自分は「まとも」な側だと安心したい、「スッキリしたい」という気持ちが先行してしまう。その結果、タイムラインの潮目ばかり気にして、情報そのものを吟味しなくなる。

AにつくかBにつくかだけを考えて、情報そのものの信憑性や背景となる知識について調べ、内容を吟味しなくなる。これが「速すぎる」インターネットの弊害です。

人々は今、読むことより書くことに関心がある

だから僕は、「人々に書かせるのではなく、もう一度読むことに立ち戻らせたい」と考えた。それがこの計画のそもそもの始まりでした。

インターネットの速すぎる回転に巻き込まれないように、自分たちのペースでじっくり考えるための場を作る。僕は「Google検索の引っかかりやすいところに、5年、10年と読み続けられる良質な読み物を置く」と言っています。

ただ、考えるうちに、僕がいくらフェイクニュースやネットリンチの弊害を訴えたとしても、当たり前のことですがそれだけでは人々の発信したい欲望は止まらないだろうと思ったんですね。人々は今、読むことより書くことに関心がある。それを僕は嘆かわしいと思っているけれど、そんな個人の趣味判断や美学を超えたところで、人々の欲望は発信する側に傾いている。

であれば、そこに対して戦略的にコミットすることは避けられない。良質な記事を読ませるだけでなく、良質な発信のために書く能力を共有することも同時並行で進めないと、この運動が世の中にポジティブなものを残すことはできないんじゃないか。そう思ったんです。

そこで「読む」に加え、「書く」については僕たちがこれまで身につけてきた発信のノウハウをワークショップで人々と共有していく。この両輪を回す方向に舵を切りました。