いかに「ものを知らない状態」でいられるか

僕が誰にでも伝わる表現をするために最も大切にしているのは、「自分はものを知らないという状態」で居続けることです。もし僕がすごく勉強ができたり、なんでも詳しかったりしたら、ものを知らない人の気持ちがわからなくなってしまう。

知識で勝負しないのはイラストでも同じです。資料や画像を確認するための検索はしないことをマイルールにしています。もし消防服を描く必要があったら、何も見ずにとりあえず想像だけで描いてみる。

すると実物とはまるで似ていない物体になるわけですが、だからこそ自分が消防服について何をわかっていないのかがわかる。その上で実物の消防服を見ると、「裾がこういう形をしているとそれっぽく見えるんだな」とよく理解できます。

こうして情報を見ないで描くことを繰り返していると、何かをはじめて目にしたときに、そのものの“それっぽさ”がどこに由来するかのポイントが押さえられるようになるんです。そして、それっぽいものがどんどん描けるようになる。

正確さや精密さが求められる専門的なイラストは上手な方にお任せして、僕は自分が持っている知識だけで、誰にでもそれっぽさが伝わる絵を描くことに面白みを見いだしたい。

ただこうやって話してみると、すべては僕が単に勉強したくないための言い訳なのかもしれませんね(笑)。

息子が輪ゴムを喜ぶ姿が物語の着想に

ヨシタケ氏の作品は誰にでもあるような日常のひとコマと見慣れたものから物語がはじまる。最新刊『わたしのわごむはわたさない』(PHP研究所)でも同じだ。
主人公の女の子は、部屋の隅にぽつんと落ちていた輪ゴムを「わたしにちょうだい!」とお母さんにねだる。許しをもらって輪ゴムを手に入れた彼女は、それを愛おしそうに握りしめ、何をしようかと想像を巡らせる。輪ゴムと一緒にお風呂に入る。輪ゴムで悪い人を捕まえる。もしかしたらこの輪ゴムで空だって飛べるかもしれない――。
どこにでもあるごく普通の輪ゴムを“自分のもの”として宝物のように大事にするというこの物語の着想は、ヨシタケ家で実際に起こったエピソードがもとになっている。
きょうはいっしょにおフロにはいるわ。
輪ゴムで空を飛ぶ

今から3年ほど前、まだ小学校に上がる前だった僕の次男がゴミ箱から輪ゴムを拾ってきて、「これを僕にちょうだい」と言ったんです。

こちらとしては捨てるつもりのものだったので、「ああ、どうぞ」と返したら、息子が「やったー!」とものすごく喜んで。その反応がとても新鮮で面白かったんですよ。そうか、何かの所有権が自分に移ったことを認めてもらうのって嬉しいことなんだなって。それは自分が子供だった頃を思い出しても、よくわかる感情でした。

どんなに素敵なおもちゃでも、それが友達のものだったり、人に貸してもらって遊ぶものだったら、気分は盛り上がらない。「何をするか」より「誰のものか」が大事なことってよくあるし、「自分のものかどうか」は大人にとっても大きな問題ですよね。

これはつまり「自分にとって大事なものってなんだろう?」という価値観の話だし、大人にも子供にも共通するテーマじゃないか。そんな思いからこの絵本が生まれました。