言葉は分からない、食べ物は口に合わず「全部ヘン!」

その時に体験したのは、滞在している羽生市から川越市まで往復3時間も満員電車に揺られ、週6日みっちり働くという、卒業旅行とは思えないハードな生活。

慣れない環境でとにかく必死だったので、はっきり言って「日本や日本人のこういうところが好きだな」なんて感じる余裕はなかったし、そんなことは何も覚えていません。

こんなことを言うと日本のみなさんには大変申し訳ないのですが、当時の私が日本に抱いた印象とは、言葉はまったく聞き取れないし、何も読めないし、食べ物は口に合わないし、とにかく「全部ヘン!」というものでした。

ちなみに私が“我慢”という言葉を知ったのもちょうどこの頃。仕事のハードさと慣れない環境に疲れ、鉢物生産者のデンマーク人に「大変すぎる。こんなのあり得ない。もうできない!」と愚痴をこぼしたところ、「ニコライ、日本人ができるんだからお前もできるよ、同じ人間なんだから」と励ましてくれたのです。

この時、はじめて私は、「これが“我慢する”ということなんだ」と知りました。

撮影=吉松伸太郎
バーグマン氏の代表作となった「フラワーボックス」

金曜日は徹夜、トラックで仮眠してまた仕事…

私が日本に再びやってきたのは1998年。そこから私の本格的な日本でのチャレンジが始まりました。

東京に知り合いのいない私は、卒業旅行の時と同じように知り合いのいる羽生に住み、川越のフラワーショップで働かせてもらうことになりました。さすがに半年ほどでショップ近くのアパートメントに引っ越したので、毎日満員電車に乗らなくて済むようになりましたが、それでラクになったわけではありません。

お店の近くに住んでいなければ体がもたないくらい、仕事が大変だったのです。

どう大変だったかというと、とにかく仕事がハード。仕事は基本的に月曜から土曜まででしたが、夜遅くなるのは当たり前。それでも私は比較的早くに帰らせてもらっていたほうで、社長や他のスタッフはもっと遅くまで働いていました。

そのフラワーショップは土曜や日曜はウェディングの仕事もしていたので、特に木曜と金曜は大忙しで、金曜から土曜の朝一までは毎週のように徹夜です。耐えきれずトラックで30分だけ仮眠してからウェディングの仕事に向かう……なんてこともありました。