たとえば、私たちはスマホやタブレットを持つことを当たり前のように思っているが、三〇年前はそうではなかった。先のことは分からないが、将来、音声入力や、絵文字やLINEのスタンプのような記号を思い浮かべるだけでやりとりできるようになれば、「この時代の人が、皆、俯いて手を動かしているのは、モニターと指による文字入力を行っていたからだ」という説明が必要になるはずだ。

たとえば、普段、私たちは国家を意識していないが、それが存在していないとは考えない。しかし、いまから、二〇〇年前は違った。

福沢諭吉は「水戸、薩摩、長州、土佐藩という個々の藩はあるが、日本などという、そんなものが、どこにあるのか」と問われ、「西欧には(統計学)というものがあって、それを踏まえれば『日本』という国は確かにあるのだ」と答えたという。貿易や生産や消費を数値化すれば、藩よりも「日本」という国がまとまりとしてより実態に即しているというわけだ。国家(state)と統計(statistics)は、同じラテン語を語源とするが、統計が国家だというのはそういう意味がある。

総理「なのに」知らないのではなく、「だから」こそ知らない

それにしても、DV被害者が加害者の立場に同情するように、従業員なのに、経営者の立場を代弁して話す人がいる。どうしてそのようなことが起きるのだろう。デヴィッド・グレーバーは、構造的な不平等は想像力の偏りを生むという。彼の考えでは、ある決まった立場に置かれていると、知らないうちに、優位な立場の人間の気持ちを推し量って「想像的同一化」し、相手を理解することを強いられる(解釈労働)。

だが、こうした想像力の偏りは、必ずしも「弱者」だけに起きているのではない。小泉純一郎元総理は、政治家を引退してから脱原発運動に転じ、次のように述べる。

「勉強すればするほど、こんなものは日本でやっちゃいけない、という確信を持った」
「(原発事故は)『天災ではない。人災です』と。報告書でもそう断言されている。原発事故の根源的な原因は、監督、規制する側の経産省と、規制される側の電力会社、この立場が逆転してしまったことにある」
「それでいて、未だに懲りずに原発を推進しようとしている」
「しかし、総理の時に、なぜこれほど単純なことがわからなかったのか」

(小泉純一郎ロングインタビュー『週刊読書人』二〇一九年二月八日)