リベラルも極右も私たちとよく似ている事実を認めるべき

にもかかわらず、もし、対立が激しくなっているように見えるのだとすれば、それは、私たちがそれを望んでいるからに他ならない。ウォールストリートのオキュパイ・デモで「私たちが九九パーセントだ」(=少数のエリートではなく、自分たち多数派こそがアメリカ人である)と叫んだのと同じように、トランプの支持者もヨーロッパで移民排斥を訴える人たちも「私たちが九九パーセントだ」と言っている。

私たちの社会では、漠然とした違和感や嫌悪感を「拡大」する技術さえ最適化されている。つい、この間まで、私たちは、日本の政治は対立軸がないから盛り上がらないと言っていた。だから、他の人との違いを見つけ、少しでも個性的であろうとする。それなのに、いざ、対立が始まると、社会の分断を嘆いている。

私たちが認めたがらない、しかし認めるべき事実は、リベラルも極右も私たちと、とても、よく似ているということだ。これは、左翼も右翼もどっちもどっちという話ではない。私たちは本当に「九九パーセント」なのだ。

極右政党の多くは特徴を失いやがて淘汰される

これは嘆くべきことだろうか。『憎しみに抗って――不純なものへの賛歌』(邦訳 みすず書房、二〇一八)でカロリン・エムケは、いわゆる極右政党の台頭は、それほど心配することはないと言う。彼女は、マクロの経済政策を実行して、社会への不満や未来への不安を取り除くことさえ行っていれば、多くの極右政党は、彼らが実際に力を持って現実に可能な政策に妥協するようになるか、あるいは他からも支持を受けるようになるか、どちらにせよ特徴を失いやがて淘汰されてしまうというのだ。

それよりも、難しいのは「憎しみに対して憎しまない」ことだと彼女は言う。

憎しみに立ち向かうただひとつの方法は、自分を心のなかに取り入れてほしいという憎しみ自身からの誘いをはねつけることだ。
憎む者たちに欠けている姿勢をとることだ。つまり、正確に観察すること、差異を明確にし、自分を疑うのを決してやめないこと。

(カロリン・エムケ、前掲書

彼女は憎しみは決して自然の感情ではない、「憎しみには器が必要だ」と言う。憎しみは時間をかけて作られるものだ。であれば、器ができる前に壊すことも、あるいは、社会の中で、みんなが目に見えるところに置いて、見張っていることもできるはずだ。

無意識と当たり前の中に私たちは生きている

現代社会における〈知〉は、その軌跡が余りにも複雑になったために、文字通り私たちの社会の〈無意識〉になってしまっている。私たちは私たちの知っていることが何かを知らないし、私たちは〈知〉の作用が如何なるものなのかを知らないのです。

(ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ』筑摩書房、二〇〇〇)

この場合の「知(エピステーメー)」というのは、特別な知識のことではなく、物事を理解するときの枠組み、私たちが当たり前だと思っている「空気」のことだ。