「近視眼的な出世欲」は賢い人間をバカにしてしまう

もちろん、出世そのものが悪いことではない。出世したほうが中高年になって「リストラ対象者」になる可能性が低い。また、老後に2000万円残しておくためには、定年まではなるべく高給の仕事に就いたほうがその目標を達成できる確率も高まる。とりわけ官僚の場合、出世レースに勝ち残った人ほど、退職後、待遇のいい職場に就職できる。

ただ、昔のように自動的に公益法人のようなところに楽々と天下りできなくなっているのも事実だ。とくに、メディアなどで批判されてやめた場合は、その人の再就職を引き受ける会社は少ない。世間から叩かれるからだ。

前出・佐川氏にしても、今のところ再就職先が決まったという話は耳にしない。いくらエリートであっても引き受けたいという公益法人や大企業がないということだろう。

出世のために上司に取り入り、仲間を裏切るようなことをしていたら、やはり後々、悪印象がついて回るリスクはある。一般企業でも、地位が上がったからといって、パワハラまがいのことをしていたら、部下に訴えられるか、恨みを買うかのどちらかだろう。少なくとも部下から慕われないのは確実だ。

結局のところ、自分の成績や実績で出世するのは悪くないが、上に取り入り、下を踏みつけて出世するという旧来のやり方は、長寿が当たり前になった現在、ロングスパンで考えたら、もはや効力を発揮しないことを肝に銘じておいたほうがよいだろう。

出世を望む気持ちは否定しないが、出世というのは幸せになるための手段であって目的ではない。将来の幸せを犠牲にするような近視眼的な出世欲というのは、賢い人間をバカにするように思えてならない。

出世頭・勝ち組の大学教授が、負け組に頭を下げるワケ

ひょっとすると、私は高齢者を専門とする医師だから、「人に嫌われてまで、出世を目指すのはやめよう」という割り切りができたのかもしれない。

来年、還暦を迎えることになって自分の人生を振り返ってみると、組織内での出世にこだわらずに、いわば「生きたいように生きてきた」わが人生はそう悪くないように思えてきた。

医学部を卒業すると、多くの人間が教授を目指す。私の母校・東京大学の場合は、とくにその傾向が強く、第一志望が東大の教授なら、第二志望が地方の国立や都内の私立大学の教授といった具合だ。それがうまくいかなければ大病院の部長である。意外に思われるかもしれないが、医師として独立開業するのは途中で脱落したように見なされてしまう。

私のように大組織に属さない“フリーター医師”は教授を目指す医師たちや教授になった医師から見たら、「下の下」に映るはずだ。

ところが、無事に教授になれた人間にも定年はやってくる。しかも、一番の勝ち組のはずの「東大教授」が、いちばん定年が早い。昔はそういう人が退官すると天下りになったり、私立の大学の医学部の教授になったりしたが、近ごろは、大病院でも生え抜きのほうを優遇したり、地元の大学の出身者を優遇したりする傾向が強まっている。

つまり、東大教授であっても以前ほど簡単に再就職ができないのだ。

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東大医学部の同期などが集まる同窓会に顔を出すと、私のように定年を考えずに働くことができ収入面もさほど心配しないで済む人間はたいそううらやましがられる。羨ましがられるのは私だけではない。独立開業した医師たちもだ。比較的若いうちに開業した人ほど、還暦近くの年齢になると病院の規模を拡張したり、地元の医師会のボス的存在になったりしていることが多い。

勝ち組であったはずの教授になったような人間が、負け組のはずの開業医(病院の規模になった場合)に「雇ってくれ」と頭を下げるのである。