このとき、新聞社のビジネスモデルも変化した。以前のように販売収入に頼るのではなく、新聞そのものはできるだけ安く売り、その分を広告収入からの利益で埋めるようになったのだ。発行部数が伸びると、それだけ広告主も多くの広告費を支払った。

ハーレーは積極的に攻め続け、P&Gは1886年の広告予算を1884年の3倍にあたる14万6000ドルとした。色鮮やかなクロモ石版印刷の広告が雑誌でも広まるなか、P&Gはアメリカ最大級の広告主となった。

1919年10月には、当時アメリカで最も影響力があり、広く読まれていた雑誌、「サタデー・イブニング・ポスト」に、カラーの全面広告を出した。一方で、P&Gは広告アイデアのコンテストまで開いた。ハーレーはあるとき、「アイボリーの新しく、奇抜で、よりよい使い方」に1000ドルの賞金を支払うというキャンペーンも行った。

無秩序な広告からの脱皮

無秩序だった広告も、やがてはターゲットが1つに絞られていった。すなわち、白人で、主にプロテスタントの、郊外に住む人々だ。広告は19世紀後半のアメリカを理想化するようなものとなり、伝統的な家庭に女性と子どもと赤ちゃんがいて、純粋さと女性らしさ、家庭の尊重が中核的な価値観として据えられた。それは、急速な工業化が進む時代のなかで、安心感を映し出すものだった。

ハーレーは45歳で引退し、後任には、シンシナティ出身のヘイスティングス・L・フレンチが昇進し、販売部門全体を見ることになった。広告部門トップのハリー・W・ブラウンとともに、フレンチは山のようなデータを凝視し、どんなマーケティング活動がよい結果を出せるのか、そのパターンを見つけようとした。

2人は、マーケティングを厳密でたしかな活動として行おうとするならば、広告の効果も信頼できる方法で測定する必要があると信じていた。個人の知見は引き出されて、繰り返し実施できる方法に変換されなければならない。

「消費者心理学」に目をつける

データに基づいた意思決定の4つのステップ、すなわち、データ収集、分析、洞察、行動が、P&Gにおける規範となった。そして、データを創出し、集め、パターンを見つけ、原因と結果を探るという広告への科学的なアプローチによって、消費者心理学という急成長中の新分野を活用できるようになった。

1904年1月号のアトランティック・マンスリー誌で、応用心理学者として初めて有名になったウォルター・D・スコットは「広告の心理学」と題する記事で次のように述べた。