職人技から大量生産、オートメーションへ

大きな石けんの塊をカットするために、ギャンブルは工場の包装ラインに大きな台を設置し、そこに等間隔に張ったピアノ線を据えつけ、一度に石けんを長い板状に裁断できるようにした。

続いて、石けんは90度向きを変えられ、もう一度ピアノ線で裁断される。四角くなった石けんはフットプレス機に送られ、そこで会社のロゴが刻まれる。一度に60個の石けんが箱に入れられ、包装され、倉庫に送られる。

消費者向け製品をこのように工業的な生産方法でつくるのは、当時では珍しかった。2人とも伝統的な職人として訓練され、以前は仕事のほとんどを手作業で行っていた。また、この頃のアメリカの村々では、小規模な生産を行う作業場や工場が主体で、ヘンリー・フォードによる組み立てラインが登場するのはまだ何十年も先のことだった。

1870年代には、P&Gは16の生産施設を持つまでになり、その敷地面積は約6200平方メートル、従業員数は300人以上になっていた。より高度な設備も導入された。いままでにない大規模な設備をつくろうというP&Gの拡大戦略は、明らかに「初期の職人技から大量生産、そしてオートメーションへ」の展開である。

こうして、機械工学が頂点まで達した。何百人ものプロセス・エンジニアが日々工場内を行き来し、製品のフローをチェックしていた。当時、最も差し迫った懸念は、製品の品質と生産能力だった。

業績回復のための広告を打つ

2代目が事業を引き継ぎ、ハーレー・トーマス・プロクターとジェームズ・ノリス・ギャンブルがトップに立ったとき、同社の主力事業の1つが苦戦していた。

P&Gの有名な「スター・キャンドル」が、ガス灯の出現で打撃を受けたうえに、続くトーマス・エジソンによる電球の登場で致命的な痛手を負ったのだ。キャンドル事業による収入減を埋め合わせるため、P&Gは石けん事業により一層力を入れなければならなくなった。

ハーレー・トーマスは何年ものあいだ、業績を回復させるためには優れた宣伝が不可欠だと、親戚や年長者の説得を試みてきた。そうしたなかで、ジェームズ・ギャンブルが改良してつくり上げた最高の石けんを、シンプルに「P&Gホワイトソープ」と名付けるという意思決定が下され、ハーレーは特に腹を立てた。