わざわざ山手線・京浜東北線の電車のためにその駅名が来るのを待っていた(?)かのような状態だから、もしこれが「ゲートウェイ」といった商業的思惑を帯びた夾雑物きょうざつぶつを含まない「高輪」で決まったとすれば実にぴったりくる。周囲の山手線の駅名である田町駅、品川駅、大崎駅、五反田駅、目黒駅のように歴史的地名シリーズの仲間入りするにふさわしい。

キラキラ地名の象徴「田園都市線」

再開発でも商業施設でもスタジアムでも、何かを大々的に売り込もうとするとき、日本ではしばしば外国語を含む造語を前面に出してきた。既存の地名や概念ではいけない。気宇壮大でいて、しかし誰もが理解できるワードは避け、わかったような、わからないような漠然とした、でもみんなが憧れる雰囲気を持つ新造の固有名詞が好まれるのだ。そう、まさに広告代理店が得意とする分野である。

地名や駅名の分野で、最もそれが発揮されてきたのは新興住宅地──ニュータウンだろうか。その典型が民営最大規模を誇る東急多摩田園都市だ。この「田園都市」という言葉も歴史は古く、そもそも英国で始まったガーデンシティを翻訳し、日本に適した流儀で導入したものである。大正7(1918)年に田園都市株式会社が立ち上げられ、東京市の南西郊外に優良住宅地を供給した。

その新しい街に住む人を都心へ運ぶ役目を果たしたのが子会社の目黒蒲田電鉄で、これが今の東急になっている。田園調布という地名は、そもそも荏原郡調布村に開発された田園都市・多摩川台住宅地に由来する駅名(大正15年に調布から改称)が先で、大森区の町名に採用されたのはその6年後のことだ。

小金持ちを誘致するには「新しい地名」が必要だった

戦後も引き続き東急は田園都市開発に力を注ぎ、川崎市から横浜市にかけての多摩丘陵に50平方キロに及ぶ広大なニュータウンを計画する。新住民の輸送の軸となるのはその名も田園都市線で、新しい街の北の中心と位置づけられた駅には、当時の東京急行電鉄社長・五島昇がじきじきに「たまプラーザ」と命名した。プラーザはスペイン語で広場を意味するが、英語でないところがミソだ。昭和40年代といえばカタカナ英語は巷に氾濫しており、ワンランク上の街をアピールするのには、ひとひねり必要だったのだろう。

多摩田園都市のエリアでは、在来の歴史的地名に由来しないこのたまプラーザの他にも青葉台、藤が丘、あざみ野といった駅名が誕生し、町名としては、しらとり台、さつきが丘、もえぎ野、美しが丘などが旧来の大字・小字地名の多くを排除して設定された。当然ながら当時の既存集落といえば基本的に農村であり、小金持ちサラリーマン層をターゲットとする不動産商品の販売にあたっては、何としてもそれら在来地名に対して「差別化」することが必要だったのである。