「表現の自由」「検閲」「公金」を整理する

さらに、ある意味この騒動の飛び火となったのだが、現代アートの祭典に関連したシンポジウムを8月18日に開催するはずだった神戸市で、その開催が中止となるという事態も起きている。こちらは、作品の内容うんぬんに関わる話ではなく、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督を務める津田大介氏の登壇が予定されていることが、一部の政治家から問題視されたことも背景にあると言われている。このような余波が今後広がることが懸念されている。

あいちトリエンナーレは2010年から3年ごとに開かれており、毎回60万人前後の観客を集め、名古屋市の中でも衰退していた地域の活性化に一役買っている点なども注目されてきたが、このような形で全国に知れ渡ることになるとは予想もつかなかった。

今回の騒動をめぐっては愛知県が早速、有識者による検証委員会を開いており、今後は展覧会の開催から中止に至るまでの詳細、その評価が報告されていくことと思われるが、執筆時点(2019年8月18日)で、筆者が見るところ、中止決定の是非やその対処の仕方という運営の問題以外に、①表現の自由、②検閲、そして③「公金を使った美術展の在り方」などの論点があり、いずれも互いに密接な関係にあるため、話が混乱しがちである。

筆者は文化政策、アートマネジメント論を専門としている。表現の自由と検閲は憲法学者に任せ、③を中心に論じたいところであるが、これらは文化政策にとっても重要な問題である。

今回、「検閲」行為はあったといえるのか

まず「表現の自由」は国民の基本的人権の一つとして守られ、「検閲」はこれをしてはならない、と日本国憲法に定められている。いずれも戦前・戦中を通じて、国家が情報を操作し戦争に突入して悲惨な結果を招いたことへの反省に基づいており、日本国憲法でこの2つの基本原則を堂々と宣言しているのは重要なことである。

検閲は、本来、公的権力が表現を事前に審査し、その発表の可否を決めることを指すため、今回これに当たる行為があったわけではないものの、一部の政治家が「補助金交付には精査が必要だ」と発言したり、神戸市の事例に見られるように特定の人物の発言を封じるためにシンポジウムを中止するよう働きかけたとすれば、検閲に近い行為が想起されてもおかしくない。

検閲を絶対的に禁止することは現代の国家にとって当然のように思われるが、身近なところでは中国、シンガポールにおいて今も堂々とした検閲制度がある。