前者は、国の支配体制にとって不都合なことがないかをチェックするためである。後者は、民族間の中傷などを防ぐことを主目的としているものの、それは多民族国家の安定を図るためという点でやはり支配層にとって都合よい体制維持策と見えなくもない。日本国憲法における検閲禁止規定とその精神を、私たちは改めて大事にしなければならないと思う。
作品群は他人の権利を侵害するものであったか
「表現の自由」が憲法上全面的に保障されていることも、改めて今日の日本社会の大前提として認識すべき時期にある。もっとも、日本でも、表現の自由に一定の制限がかかることは当然である。これまでの司法判断の積み重ねとなるが、表現の自由が他人の権利・自由(例えばプライバシーが守られる権利)とぶつかる場合、どちらの方がより守られるべき利益であるか比較衡量され、前者に制限がかかる可能性がある。
今回の事件では一部の人たちの価値観と相反する表現があり、その人たちの感情を害したと評価できるかもしれないが、それが表現の自由を上回るほど大きいものであったのかというと、そうは思われない。
もっと平たく言えば、極右勢力が自分たちの気に入らない表現を抑圧するため、場合によっては組織的に、あるいは個別に暴力的な脅しをもって圧力をかけたにすぎないのではないか。こうしたヘイト・スピーチとも呼ぶべきものに対し、社会として今後どのように対処していくべきか、大きな課題として改めて突き付けられた。
「公金を使うからには……」に続く発言の違和感
さて筆者が最も気になるのは、「公金を使った限りは」という、今回の騒動に触れ頻繁に見られる言い回しである。例えば橋下徹氏の「橋下徹「津田大介さんはどこで間違ったか」」(8月7日)において、「税金を使う以上(中略)「とにかく自由に使わせろ!」という主張を許すわけにはいかない」と述べている。
最後までよく読むと、議論を呼ぶ政治的内容を含む場合には両者の立場を代表する作品を並列させる「手続き的正義」が必要だと言っている。この主張には一定の合理性があると思う。
しかし、同氏独特の過激な言い回しがちりばめられた最初から半分ぐらいまでの範囲を読む限りでは、「税金を使う以上は」政治・行政にとって不都合な表現まで許すわけにはいかない、という主張であるかのように見えた。
この筆者が恐れた主張は、実際、吉村洋文大阪府知事の次の発言(同氏のツイッター、8月5日)に見られる。「愛知県知事が実行委会長の公共イベントでしょ。(中略)愛知県が中心に主催する公共事業なんだよ。そこで慰安婦像設置や国民の象徴の天皇の写真を焼いて踏みつけるはないでしょ。」