税金で現代アートを展示する本来の理由

ここで、税金を使った芸術文化イベントは、決して主催者である行政の政治的立場・意図などを伝える手段としてあるわけではないことを強調しておきたい。一方で、芸術文化事業に対して公的資金を支出するからには、それが公共の利益に資することを説明する義務が生じることも押さえておかなくてはならない。

芸術は(橋下氏によれば、学問なども)崇高なものだからとにかく守られなければならない、公金によるサポートは当然だ、という理屈が通らないことには賛成できる。

今回のような、特に現代アートを中心とするフェスティバルに公金を投入する理由は、「人類に普遍的価値を持つ芸術作品により人々の心を豊かにする」という公立美術館の設置目的に書いてあるようなことではない。

現代のように複雑化した社会の多様な価値観、大量に氾濫する情報の中に埋もれてしまいがちな大事な価値への気付き、といったものをアーティストがえぐり出し、社会全体に対して突き付け、議論を巻き起こすことに大きな価値と目的があるから、と考えるべきである。

もっとも、デリケートな問題もあり、目を背けたいという人の意思も尊重すべきであるから、海外ではそうした展示空間の手前に「ここから先は、人によっては不快に感じるかもしれない表現があります」という警告が掲げられていることが多く、これは適切な対処法であろう。

あまり議論されない「私的展示とは違う規準」とは

しかしここでもう一歩踏み込むと、公金を使った場合の展示内容には、私的に行う場合とは異なる規準が求められるのだろうか、という問題が残る。これについてはこれまで国内であまり議論がされていないため、今回の一件で筆者も改めて考えさせられている。

実は1980年代後半に、アメリカでも芸術表現をめぐる大きな騒動があった。全米芸術基金(NEA)という連邦政府組織の公的助成金が、「わいせつ」(obscene)な、あるいはキリストを冒涜ぼうとくするような表現で不快感が持たれる、と見なされかねない美術作品の展示に使われたことをきっかけに論争が起こり、国中を10年以上にわたり揺るがせた。

この論争の中、NEAは助成金交付に当たり、上記のような表現は含まないという宣誓を文化組織、アーティストに一時義務付けていた。その後、助成審査過程やマネジメントの問題も含めたNEAの独立検証委員会が組織され、この義務は廃止となったが、結論としてNEAの助成金審査は、私的な展示とは異なる基準が必要とされるに至った。