公的助成はアーティストのためだけではない

すなわち、助成先選定に当たっては、芸術的質の高さに重きを置くものの、わいせつな表現は表現の自由として守られるものではなく、NEAはこれを助成してはならないことになったのである。

先にobsceneを「わいせつな」ととりあえず訳したが、これは性的にみだらというだけではなく、品位を欠き不快感をもよおすような、という広い意味の言葉であるから、アメリカの芸術に大きな制限がかかったことは間違いない。

アメリカでは民間財団による助成と個人・法人の寄付が盛んであり、NEAからの助成金とは比較にならないほどの資金が芸術文化に流れることは救いである。一方、NEAの存在感、その方向性への注目度は高いため、NEAという公的基金を通じた展示では、ある種の表現を許さないと決まったことには衝撃が走った。

もっともこれは、NEAの資金はそれを直接受け取るアートだけでなく、アメリカの全ての人々のためにあるものであるという考え方に由来する。資金を受け取った者はその作品の幅広い普及に努め、少数民族や過疎地域などさまざまなコミュニティーの文化も反映していく必要があるという大きな基本方針をNEAは掲げている。

この一件で必ずしも表現規制が強まったということではないが、例えば児童ポルノ、宗教や民族的対立に基づく攻撃的な表現への助成は難しくなったと思われる。しかし、obsceneが何を指すかという解釈はいまだに明確でなく、わが国の参考になる事例といえるかどうか、筆者自身にも迷いが残る。

社会に与える意義をもっと説明すべき

結論として私たちは今後何をすべきか。まず現代アートと呼ばれる領域は、近代までの美術とは違い、現代社会に潜む問題や多様な価値を観客に突き付けること、それを革新的な表現手法をもって行うことが多い、ということを理解しなければならない。

瀬戸内海の島と港が舞台の「瀬戸内国際芸術祭」などの地域アートフェスティバルや、現代アートを専門とする美術館(東京・六本木の森美術館、石川県の金沢21世紀美術館他)が多くの人を集めブームとなっていることには勇気付けられる一方、こうしたアートは「見る」以上の行為を鑑賞者に要求していることも多い。

しかし、鑑賞のための教育・学びの機会は、日本においてはこれまで決定的に欠けている。人々が作品との関係を構築し、深めていく過程を、アーティスト、美術館、キュレーター、エデュケーターといった専門家たちが、どのように支援できるのかは今後ますます重要になってくる。

一方、特に現代アートは、一部の変わった人たちが好き勝手に表現しているという印象を持たれることが従来あり、その印象は強まっているようにも見える。鑑賞者の心の安定に揺さぶりすらかけてくるアートの価値につき、アート関係者たちはこれまで以上に社会に伝えていかなければならない。「公金を使う限りは」、対象となる事業の「社会的」意義を、説得力をもって社会に対して説明していくことが強く求められるのである。

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