「表現の自由」の危機を可視化できる絶好のチャンスだった

ガソリンをまいてやるという脅迫があったから中止したといういい分も、私には納得できない。こうした脅迫、恫喝、権力側の介入を含めて、この国には表現の自由、言論の自由が危険水域にまで達していることを"可視化"できる絶好のチャンスだったはずである。

パフォーマンスといういい方は嫌いだが、言論の自由度が韓国よりはるかに低いこの国の「現実」を、何も考えなくなっている日本人に突きつけてやる画期的なイベントにできたはずだった。

それを、津田の涙で終わらせてしまってはいけない。

そういうお前に、そんな覚悟があるのか? そう問われれば「ない」と答える。齢70を超えても命は惜しい。

そんな私だが、昔、表現の自由を守るために、少しだけ闘ったことがあった。胸を張っていえることではないかもしれないが、「性表現の自由」を少しだけ前に推し進めたのは私だったと自負している。

1993年に「ヘア・ヌード」という言葉が生まれた

週刊現代編集長時代に、「ヘア・ヌード」という言葉を創った。今は週刊誌に氾濫しているヘア・ヌードだが、こうなったのはそう遠い昔ではない。

月刊誌『面白半分』の編集長だった作家の野坂昭如が、永井荷風の作とされる『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。これが刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長が起訴され、最高裁で有罪が確定したのが1980年の11月である。

それまでも性表現の自由の扉をこじ開けようと努力し、果たせずに辞めていった多くの先輩編集者たちがいた。

性表現の自由は遅々として前へ進まなかった。ヘア・ヌードという言葉が生まれたのは1993年である。性表現の自由は急速に広がったが、同時に、朝日新聞を始めとする「良識派」からの攻撃、広告主への圧力、JALを始めとする機内誌からの排除、桜田門(警視庁)からの恫喝、自宅への嫌がらせ電話は激しさを増してきた。

このままではせっかく広がってきた性表現の自由が後戻りしてしまう。そう考えた私は、週刊現代誌上で「ヘア・ヌード断筆宣言」を発表する。以来、編集長を辞すまでこの言葉は使わなかった。

つまらないことを長々と書いたが、表現の自由の中の「性表現の自由」を多少でも前へ進めようとしたバカがいたことを知っていただきたかったからである。