一通のハガキが、東京・東陽町のダイエー本社に届いた。宛書は“社長様”。太いマジックで東北弁が記されていた。“ありがど!!”

差出人は“被災者一同”。被災から6週間が過ぎていた。仙台市内の消印が押されたハガキを手にダイエーの桑原道夫社長は、こう実感できた。「スーパーは、電気、ガス、水道とともにライフラインのひとつ。その使命をなんとか果たすことができた――」と。

ダイエー仙台店は、営業再開後、前年比1.3倍の売り上げで推移しているという。

震災から9日目。3月21日13時ごろの店頭。依然として行列は続いていた(ダイエー提供)。

震災から9日目。3月21日13時ごろの店頭。依然として行列は続いていた(ダイエー提供)。

「震災直後からの対応をお客さまに評価していただけたのだと思います」と桑原は語る。「従業員たちは長時間列に並んで入店いただいたお客さまに対して、感謝の気持ちを抱いた。お客さまに支えられていると実感した。我々は、その思いをこれからもずっと抱き続けなければならないんです」。

仙台店が営業を再開したのは、震災の2日後の13日午前9時30分。

「メチャクチャに散らばったパズルを探し集めて、整理しているような2日間だった」とダイエー仙台店の芝村浩三店長は振り返る。

仙台市内の自宅マンションで休日を過ごしていた芝村を「とてつもない揺れ」が襲った。食器やパソコンが渦を描きながら落下し、タンスや冷蔵庫が吹っ飛んできた。店はどうなっているんだ……。左腕で柱を、右手で鴨居を掴んで体を支えながら芝村は思った。電気が消えた。10階の自宅から1階まで階段を下りた。外に出ると人だかりができていた。そのなかに足を切って血を流している女性がいた。お客さまも従業員も、みな無事でいてくれ――。

余震が続くなか、店までの10分ほどの道のりを祈りながら走った。芝村が1階のフロアに入ると、従業員の誘導によって数百人の客が避難していた。幸いけが人はなかった。

仙台店の従業員は約350人。すべての客が退店した後、パート従業員を帰宅させた。残った十数人の正社員たちが店内の公衆電話を使って、出勤していない従業員の安否確認をした。携帯電話はまったく繋がらなかった。

仙台店は地下2階から8階までの大型店だ。しかし販売面では苦戦が続いていた。8日前、テコ入れのために13年ぶりの全館改装を終えたばかり。

これからというときに……。芝村は、被害状況を確認するために店内を回った。商品が棚から飛び出して散乱していた。マネキンやインテリアは折り重なって倒れていた。段ボールを挟んだままエレベーターが停止していた。8階のスプリンクラーが破裂して水が噴き出していた。屋上では10本あるアンテナのうち、6本が折れ曲がり、歩道に落下する恐れもあった。

電気が復旧したら、いくつのフロアを営業できる状態に戻せるだろうか。たとえ、通電が遅れた場合でも、商品を外に運び出せば販売はできる。ただし、屋上のアンテナを何とかしなければ……。芝村をはじめ十数人の正社員は店舗内の食堂に泊まり込み、不眠不休で復旧作業に取りかかった。翌日、多くのパート従業員も店に集まった。

「できるだけ早く――それだけしか頭にありませんでした」と芝村は続ける。

「第一の目的は、とにかく早く営業を再開すること。どんな形で再開するか、様々な選択肢を想定していました。そのためには、障害をひとつひとつ取りのぞかなければならなかった」

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(小倉和徳=撮影 ダイエー=写真提供)