その時、日立事業所の大源伸次郎電機製造部長は、建屋の外にいた。

「外から見ると建屋が1メートルくらいは揺れているように見えた。こりゃ、クレーンの2つや3つは、落ちているかもしれない、と思いました」

3月11日、午後2時46分。日立製作所日立事業所のある茨城県日立市も、震度6強の激しい揺れに襲われた。もちろん操業は停止する。

蒸気タービンの低圧ロータ。最長翼は約140枚。熟練の職人が手作業で仕上げていく。

蒸気タービンの低圧ロータ。最長翼は約140枚。熟練の職人が手作業で仕上げていく。

日立事業所は日立の電力システム会社の中核工場である。同事業所の年間売り上げは約4000億円で、電力システム事業全体の約半分を占める。事業所の従業員は日立だけで約5000人、協力会社まで入れると約7000人もの人間が働いている。

通常出勤となったのは3月22日、本格操業宣言を出したのは、震災から18日後の3月29日のことだ。4月中には生産能力は100%に復帰した。

自動車産業では、部品の供給難などから生産能力がいまだに100%まで回復していない企業も多い。なぜ、これほどの巨大工場が、短期間に復旧することができたのか。復旧の足跡を追ってみよう。

 

構内PHSもダウン!社員が送水管を溶接

工場内にハンマーの槌音が響く。壁にはタービン製造部の標語「打ち込め魂 ロータの中に」が掲げられている。

工場内にハンマーの槌音が響く。壁にはタービン製造部の標語「打ち込め魂 ロータの中に」が掲げられている。

復旧は、次のような手順を踏んで行われた。まず「建物危険度判定調査」を実施。建屋に入っても安全だと確認ができれば、機械設備の点検・調整を行う。その後、稼働テストを行い、被災前の状態に戻す。

日立事業所には、最も規模の大きい海岸工場のほか複数の工場があるが、全体で建屋数148棟のうち、立ち入り禁止となるほどの被害を受けたのは8棟。事業所の幹部が詰める海岸工場の本館も、4階部分の壁にひびが入り使用不能となった。ただ、総じてみれば建屋の被害は少なかった。

海岸工場では本館が被災したため、「海下門(うみしたもん)」の付近にある食堂に災害対策統括本部を設置。従業員は、指定の場所に避難したのち、夕方には臨時バスを出して帰宅させた。

が、公共交通網は完全にマヒしており、バスは大渋滞に巻き込まれた。午後7時30分ごろに工場を出たバスが、約40キロ先の水戸市にたどりついたのは、翌朝の午前10時頃であった。一方、出張で東京に出かけていた社員の中には、途中避難所に泊まりながら、徒歩で2日かけて事業所にたどりついた人や、その場で購入した自転車に乗って戻ってきた猛者もいた。

3月14日から18日まで、一般社員は休業となり、3連休明けの22日から通常出勤が始まった。

休業の間、部課長以上の社員が出社し、被害状況の把握や復旧のプラン作りに追われた。最初の難関となったのが電源だった。

地震直後、日立事業所も停電に見舞われた。翌12日の午前9時半に自家発電設備を稼働させ、午後には第一次電源を立ち上げた。翌13日の日曜日には第二次電源を立ち上げ、結局、事業所全体では10台もの自家発電機を緊急調達することになった。

 長時間の電源喪失という予想外の事態により、情報の収集と伝達に問題が起きた。電話が使えなくなったのだ。日立事業所では構内通信用にPHSを使用している。電子交換機のバッテリーは8~10時間程度はもつ設計になっているのだが、ここまで長時間の停電は想定されていない。