構内PHSは12日の午前1時ごろに使えなくなり、復旧したのは自家発電が立ち上がった後の13日午前10時半だった。所員は情報伝達のため、海岸工場だけでも東京ドーム約13個分(60万平方キロ)という広さがある構内を駆けずり回ることになった。

発電機の中に潜って作業をする。

発電機の中に潜って作業をする。

一方、東京の本社との連絡には支障は出なかった。停電時にも使うことができる旧式の災害専用電話が用意されていたからだ。

日立事業所で製造を担当する南雄彦副事業所長は、その間の切迫ぶりを、率直に明かす。

「あの時は、毎日一つずつ問題に対応しているわけではなくて、いろんな項目を全面展開していた。それで、どうしてもあることに気が向かないときがある。慌てて仮設の電源を引いて、電話を使えるようにしたり、サーバーを使えるようにしたりしました」

当初の3日間、復旧に向けた各部署の役割やプランを記したペーパーはすべて手書き。電気が自由に使えなかった状況を生々しく伝えている。その後、15日の昼には復電し、自家発電機も撤去された。

もう一つの大きな障害が水だ。日立事業所では、南に約25キロ離れた久慈川から工業用水を引いている。水は設備の冷却だけでなく、トイレの下水としても使っている。

この配管が地震によって、いたるところで漏水したのだ。一番大きな被害を受けたのは、途中の茂宮川大橋にかかる送水管であった。地震で道路が陥没した結果、パイプが4カ所にわたって断裂を起こしていたのである。3月14日の夕方から作業を開始し、配管切断、位置合わせ、溶接による補修作業を、わずか一晩、ほぼ徹夜でなし終えた。専門業者の手配ができなかったため、急遽、タービン製造部門の溶接工たちに作業を依頼。社員の手で溶接作業を完了させた。

水の問題は送水管ばかりではない。海岸工場の高台には、運んできた水をためておくピット(池)が3つある。その底に大きな亀裂が走り、水が抜けてしまったのだ。ピットの底には、長年の間にたまった汚泥が堆積していた。

「他県からのバキュームポンプを入れ替わり立ち替わりで持ってきて、それで吸い上げた。それだけでも1週間以上かかりました。燃料をものすごく消費するので、燃料の軽油を何とか確保しながら、ぎりぎりの状況でやってきた」(南副事業所長)

4月4日、ピットは再び工業用水で満たされた。

※すべて雑誌掲載当時

(小倉和徳=撮影)