「事実上の日米安保発動」とまでいわれた震災後の日米連携“オペレーション・トモダチ”は、震災当日の11日から始まっている。
在日米軍司令部と自衛隊との間で、米軍の全面協力と、そのための「共同運用調整所」の設立が合意され、東京・市ヶ谷の防衛省の中枢に米軍将校が詰める異例の体制が成立。数時間後には菅直人首相から北沢俊美防衛相に「大規模震災災害派遣命令」が出され、オバマ米大統領は「日米の友情と同盟は揺るぎない」との声明を発表した。
仙台空港が復興のシンボルとして“指名”された目的は2つ。広範囲にわたり鉄道・道路が寸断された中、大量の物資を空路で送り込むための拠点=ハブ空港とすること、もう一つは、冠水し、瓦礫とヘドロと車の残骸で埋まった空港を目に見える形で復旧、アピールすることによる心理面の効果だ。
「現地入りした国交省の人らと、13日から打ち合わせを始めました。『まあ、少しずついこうや』と、ヘリ発着のためにエプロンを片付けていましたが、翌14日朝、急に『16日までにB滑走路を1500メートル空けろ』といわれた」(北原氏)
米軍が来る。しかも、猶予はわずか2日間……北原氏はよそで復旧作業に従事していた社員をすべて呼び出し、本社に懇願して重機や大型ダンプをかき集め、トレーラーで運び込んだ。
実は13日、空港を空から偵察した一団があった。米空軍の太平洋特殊作戦コマンド。何もないところに滑走路をつくって拠点を築くのが仕事で、管制塔代わりとなる特殊車両「ハンビー」はじめ数々の重機を積んだ大型輸送機C-130を擁し、ソマリアやボスニアで活躍した精鋭たちである。
その彼らをもってしても着陸が覚束ないほどひどい状態だったが、「幸い、車と瓦礫はA滑走路に比べればそう多くはなかった」(北原氏)おかげで、B滑走路はどうにか片が付いた。C-130は予定通り着陸した。
「あんな大きな機体でよく1500メートルで止まれたなあ。みんな拍手でしたもん、『すっげえー!』って」(北原氏)
ただ、当の米空軍パイロットが「あのフライトがこれまでで一番怖かった」と語ったように、復旧とは程遠い状態に変わりはなかったのだが。