津波によって仙台空港は全域で壊滅的な打撃を受けた


 1.空港ビルは地震発生直後から水が引けるまで、旅客や職員、地域住民など約1600人の避難を受け入れた。指揮を執った伊藤社長は「全員をグループに分け連絡系統の一本化を徹底した結果、大きな混乱は起きませんでした」と語る。

2.まずはヘリコプターの着陸を可能にするため、普段は航空機の駐機場所であるエプロンの撤去作業から着手。傍らでは、国土交通省の職員たちがNECや明星電気、富士興業ら委託業者とともに、管制機能の回復に向けて奮闘を開始した。

3.米軍の輸送機が着陸するために必要な1500mの滑走路の作業は主に滑走路維持管理の受託業者でもある前田道路が担当。津波が引いた当初の滑走路には、瓦礫や車の散乱のみならず、遺体が横たわるなど痛ましい光景だったという。

4.B滑走路の残る3000mまでの部分の作業では、米軍の大型重機が大活躍した。前田道路との共同作業で、1カ月という無謀とも思える期間での離発着機能の復旧に道筋をつけた。米軍の作業従事者はピーク時で260名にも達したという。

5.浸水のひどかったA滑走路は一時、撤去した自動車の仮置き場として使用。津波で流されてきた馬の死体や、養豚場から逃げ出したのか、駆けまわる豚の姿などが散見されたという。最終的に撤去した車の数は、実に2250台にも及んだ。

6.空港運用の保安要件を満たすため、外部からの侵入を防ぐ壁の整備が必須。前田道路は可能なかぎりの動員で空港を巡る木柵を2週間余りで設置した。国土交通省航空局の高橋良正課長補佐は「信じ難いスピードで木柵が立った」と話す。

(初沢亜利=撮影 AP/AFLO=写真)