「凄いスピード。どこまで行くんだろうと……」――伊藤克彦・仙台空港ビル社長(61歳)は、空港ビルの窓外で津波を目の当たりにした。滑走路をみるみる覆う濁った水。飛沫を上げながら見え隠れする民家の残骸や乗用車に、セスナやヘリがなすすべなく巻き込まれていった。
前田道路・仙台南営業所の北原正俊所長(46歳)は、営業所のTVでその映像を見た。道路建設・修繕大手の同社は、仙台空港の滑走路のメンテナンスを担う。が、津波が空港に来るなどまったく想像の外だった。
「来たぞ、うわーっ! という感じ。空港には2人いるはずだと思い出したが、携帯が繋がらない。腰から下をびしょ濡れにしながら、間一髪で一命を取り留めたことを後で知りました」
翌12日、腰まで水に浸かってやっと空港の敷地内に到達した北原氏は、「元に戻るのは何年先だろう……」と、流れてきたセスナ機の残骸を茫然と見つめるほかなかった。
今も動画サイトなどで繰り返し再生されている空港の水没映像を見て、そこにひと月後、民間機が離発着している現実を想像できる者はまずいまい。
激しい揺れでレーダー、管制塔がマヒした東北の空の拠点・仙台空港。海岸から約2キロの距離とはいえ、いわゆる“ゼロメートル地帯”だ。敷地東側の堀を軽々と越えた津波は、非常用電源を潰し、建物1階の壁や窓ガラスに乗用車を突き刺し、洩れたガソリンに引火して貨物棟を2日間燃やし続けた。5~6分に1便は離発着していた旅客機の駐機“ゼロ”という幸運がなければ、さらなる地獄絵図が待っていたはずだ。
伊藤社長は乗客や老人ホームなどの地域住民、空港職員ら約1600人を3階に避難させ、国際線ラウンジを開放。班分けして土産物店の水、牛タンと銘菓「萩の月」を配った。
「ヘリが降りられず、物資も落とせない。水道・電気がなく、トイレの水も流れず、携帯電話もマヒ。雪の降る極寒の下で毛布も足りず、多くは床の上で寝泊まりされていました」(伊藤社長)
しかし4月13日の午後、羽田発の臨時便がここに着陸した。避難者たちが脱出ボートに乗る順番を決めていたほどの惨状からわずか1カ月。ここで、いったい何が起こったのか。
※すべて雑誌掲載当時