「ただしくない価値観」は多様性に含まれない
2017年にはGoogleのエンジニアが、社内における「男女平等スキーム」を批判する文章を公開して同社を解雇された(Forbes JAPAN「グーグルを解雇の『保守系社員』が法廷に、白人の権利主張」2018年1月19日)。
解雇されたエンジニアはのちに同社を提訴しており、「Google社内はリベラル的な思想(反保守主義・反白人男性)のエコーチェンバーが生じている」と主張した。本来「多様性」のある社会ならば、彼のような保守的思想も「多様性を構成するひとつの価値観」として尊重されるはずのものだが、現実はそうではなかったようだ。
これは国内の「オルタナ右翼」を代表とする保守層によって取り上げられて大きな争点となり「(リベラルは)多様性を尊重すべきというが、結局はリベラル的な文脈で『ただしい』と認められたことにかぎってしか尊重しない」と批判が強まる結果となった。
2019年には、17歳の少年が「この世に性はふたつしかない」と発言したことで3週間の停学処分となった(Evening Standard「Teen, 17, who sparked row for saying there are only two genders ‘suspended from school for three weeks’」2019年6月23日)。男性・女性以外の性を認めないような価値観や思想も当然に存在するはずだが、それは「多様性を構成するひとつの価値観」とは認められなかったようだ。
現代社会において「ただしくない価値観」は「多様性」の仲間には入れてもらえない。現代社会における「多様性」は「ただしいもの」に対しては寛容だが、一方で「ただしくないもの」に対してはまったく不寛容で排他的である。
多様性は「折り合いをつけていく方法を模索する」営み
「ハーフの子どもを産みたい」という動機を持つ人は当然いるだろうし、そうした価値観を持つ人へ訴求するようなメッセージはありえるだろう。だがそれは「多様性」においては「ただしくないもの」であり、それが存在すること自体が許されないのだ。かりにこの3年間のうちに社会がアップデートしてきたものがあるとすれば「『ただしくないもの』への不寛容性」であるだろう。
多様性とは、皆が朗らかに強調し連帯し理解し合い暮らしていくことではない。まったく異なる価値観や社会観を持っている人同士が、時に衝突し軋轢を起こしながらも、しかしお互いをせん滅するような最悪の道を選ばず、なんとか折り合いをつけていく方法を模索する営みだ。
少しばかり「気に入らないタイプの多様性」が登場したら、それをたちまち排除してしまうようなこらえ性のない社会は、今後拡大していくであろう多様性の負荷に耐えきれなくなれば、今度は積極的に多様性を排除する側に振り切れるだろう。