「私たち人間は美しいものが大好き」という本音

意地の悪いことを言ったが、怒る気持ちはまったくわからないわけではない。自分たちでそのような考えを持ったり、それに基づいて他人を選別したりするのは自由だが「お前はそういう考えを持っているだろ?」とあけすけに言われるのは腹が立つものだからだ。だが、いくら建前をきれいに取り繕ったところで、素直なお気持ちに従えば、私たち人間は「美しい」とされるものが大好きなのだ。

「宝石のような目」に金髪、そして「少しばかりの淡いそばかす」。オセロは、黒人か混血が大半を占めるブラジル人とは見かけが全く異なる。だが、シアトル精子バンクが「白色人種」と表現するこの米国人のレジ係は別名「ドナー9601」。異例のペースで、若い米国人男性のDNAを輸入する裕福なブラジル女性から、最も多くのリクエストを受ける精子提供者の1人だ。
(The Wall Street Journal「ブラジルで米白人男性の精子需要が急増」2018年3月25日より)

自らの自由によって他人を選別する行為には差別性を感じないが、しかしその行為を他人によって描出されたときには「このメッセージには差別性がありありと表現されており、不適切だ!」と憤る社会の一貫性のなさ――この一貫性のなさこそ、現代の人間社会そのものなのだろう。

社会のアップデートではなく「ただしさ」の先鋭化

先述のとおり、「ハーフの子を産みたい方に。」の広告は最近に制作・発表されたものではなくて、3年前のものである。この3年のあいだは特にインターネットの炎に焼かれるようなこともなかったのだ。これが3年のうちに「社会的にけっして許されないもの」として再解釈された事実はきわめて重要だ。というのも、この事実は「社会が3年の間に適切な人権感覚のアップデートを経ている」というよりむしろ「ただしさ」への信仰をさらに先鋭化させてきたことを示唆するものだからだ。

現代社会は「寛容性」や「多様性」の重要性を謳ってきた。ことなる価値観や文化をもつ人同士がいかに歩み寄り、理解し合うかを模索してきた。だが皮肉なことに、現代社会は必ずしも寛容でもなければ多様でもないような様相を呈してきている。なぜなら、寛容に受け入れられ、多様性のひとつとして包摂されるかどうかは「それが社会的に『ただしい』かどうか」が前提となっているからだ。矛盾して聞こえるかもしれないが「多様性」に含まれる多様性と、そうでない多様性がこの世には存在する。