「地域力」という概念がある。地域が一体になって共同体をつくり、挨拶、声がけ、対話などをしていくことによって、地域の諸問題を共同で解決するというような概念だ。
この「地域力」こそ、封建的な因習とよそ者への疎外、偏見をうむ日本型ムラ社会の温床であり、前近代的「人間の密着」を嫌う人々がいたからこそ、人々はムラから他者に拘泥するストレスの少ない大都市に移動した。それが、一周回って「地域の力」とか「地域の知恵」みたいな「人間は地域共同体に所属し、外交的に他者と会話することが善人で、犯罪を抑止する」という旧態依然とした、安易な観念につながっていく。
「地域力」は、ゴミ出しのマナーを改善するかもしれないが、大量殺戮を抑止する力を持ちえない。もし再犯を防ぐ方法があるとしたら、それは地域力の向上ではなく、スタンガンなどで武装した警備員を雇うなどの自衛方策のみだ。
不幸でも絶望でもなく自由の謳歌だ
「地域力」とは監視と密告社会の復活であり、それこそ社会の空気を窮屈にする。同調圧力の中に内包されるぐらいなら、筆者は喜んで「ひきこもり」や「社会的孤立・孤独」を選ぶ。それは不幸でも絶望でもなく自由の謳歌だ。
岩崎容疑者はモンスターだ。大量殺戮はどのような理屈をもってしても肯定できない。しかしテロと「ひきこもり」「社会的孤立・孤独」は無関係で、その図式でしか語れない報道の貧困さ、想像力の不足を憂えてならない。
(写真=時事通信フォト)