聖教新聞の即位報道は、落ち着いた文面

創価学会の池田大作名誉会長の主著『人間革命』には次の一節がある。

〈仏法から見て、天皇や、天皇制の問題は、特に規定すべきことはない。代々つづいて来た日本の天皇家としての存在を、破壊する必要もないし、だからといって、特別に扱う必要もない。(略)具体的にいうなら、今日、天皇の存在は、日本民族の幸、不幸にとって、それほど重大な要因ではない。時代は、大きく転換してしまっている〉

天皇陛下(右)と池田名誉会長。「天皇はさして重大でない」。(時事通信フォト=写真)

これは、戸田城聖・創価学会第2代会長の言葉として書かれているもので、事実上「創価学会の教義」である。

つまり現在の創価学会にとって、天皇とはさして「重大」な存在ではない。実際に生前退位や女性宮家創設論など、近年に巻き起こった皇室をめぐるさまざまな議論の中でも、創価学会や公明党がそこに深入りして、何か重大な提言を行った形跡もない。創価学会の機関紙『聖教新聞』の2019年5月2日号では、前日の新天皇即位を1面で報道。それを祝す原田稔会長の「謹話」も載せてはいるものの、よくも悪くも抑制された、熱狂的な雰囲気などはまるで感じさせない“落ち着いた”文言である。

ただ、宗教史的に創価学会は日蓮宗の系統に属する教団だが、このように天皇を「重大」なものととらえない学会の姿勢は、実は日蓮思想の中では少々特殊なものだ。鎌倉時代に生きた日蓮宗の開祖・日蓮は、天変地異や政争の相次ぐ混乱した当時の世相の中で、「自分の教えこそが日本国を救う思想である」と宣言。「国家諫暁(かんぎょう)」もしくは「国主諫暁」と言って、鎌倉幕府の要人などに対する“直撃布教”のようなことを繰り返す。これによって日蓮は時に殺されかけ、流罪にもされたのだが、その姿勢は生涯変わらなかった。

つまり日蓮にとっての布教とは“対民衆”よりも“対権力者”に重きが置かれていたきらいがあった。こうした姿勢は後世にも受け継がれ、戦前の日本を軍国主義に導いた思想家たちに日蓮主義者が多かった事実とも密接に関係する。そして彼らの言う国主諫暁とは、「天皇への布教」を意味した。

戦後、日蓮系教団の多くは、戦争への反省などから露骨な政治関与を控えるようになったが、創価学会は新たなロジックを生み出す。「主権在民の世の中では『国主』とは民衆のことである」という大方針転換で、特に池田大作氏は「日本国民の3分の1が創価学会員になれば、布教は完成する」といった趣旨のことも口にするようになる。