ここに関わるのが、意外にも、曹操の情の深さ、という一面なのだ。曹操には曹嵩(そうすう)という父がいて、徐州(今の山東半島の付け根部分)という所で戦乱を避けていたのだが、194年に、徐州の長官だった陶謙(とうけん)の手の者に惨殺されてしまう。

怒り狂った曹操は、父の仇をとるべく徐州に攻め込み、陶謙軍を打ち破っていくのだが、このときに起したのが「徐州の大虐殺」だった。

軍隊の通る道すがら無関係な住民を虐殺し、死体の山を築き続ける。怒りに目がくらんでの所業だが、これが後々、曹操の覇業を阻む最大の要因になっていく。

『三国志 正史と小説の狭間』(満田剛・白帝社)という本には、こんな指摘がある。

「以後、徐州からは大量の難民が出た。その影響は、三国時代の人物で徐州出身者を挙げてみればすぐに分かる。張昭、厳畯(げんしゅん)はともかく、魯粛(ろしゅく)・諸葛瑾(しょかつきん)。そして諸葛亮である。彼らはこの際に南へ遷っていったと見られるが、後に三国鼎立(さんごくていりつ)の流れを作り上げた張本人たちである」

挙げられた中で、諸葛孔明(名は亮、字(あざな)が孔明)と魯粛は、それぞれ別個に「天下三分の計」を構想し、劉備と孫権に授けた2人として有名だ。

孔明と魯粛は、おそらく自分たちの出身地の惨状を見聞し、無関係な住民まで虐殺する曹操に天下をとらせるわけにはいかない、と考えたのだろう。

以後の歴史は、2人の描いた青写真に近い形で、曹操、孫権、劉備による天下三分が形成されていく。

どんな素晴らしい才能があっても、1つの感情的爆発がすべてを台無しにしてしまう――これが、曹操から後世のわれわれが学ぶべき教訓となる。

敵を無意味に増やしてはならないのだ。

●=「火へん」に卓