人足寄場(にんそくよせば)というのがあった。
正式には「加役方人足寄場(かやくがたにんそくよせば)」という。幕府が、江戸の佃島に隣接する石川島に設けた無宿人収容所のことだ。
当時、江戸には地方で食えなくなった多くの者が入り込み、やがては身を持ち崩して無宿者になっていた。彼らを野放しにしておけば、江戸の治安問題にまで発展するため、無宿者を収容する施設が必要だった。
はじめは出身地に送り返したり、伊豆七島や地方に移住させたり、佐渡金山に送り込んだりしていたが、とうてい解決できなかったのだ。
人足寄場には、無宿者のほか、入れ墨刑(顔や腕に前科を印す)や敲(たたき)刑(棒や杖で殴打する)などの処罰を受けても引き取り手のない者、引き取り手がいても再犯のおそれのある者も送られた。
石川島は江戸湾に浮かぶ沼地の島。江戸にあった「アルカトラズ」と思えばいい。だから、無宿人収容所だった人足寄場には、追放刑「江戸払い」以上の犯罪者も入れられるようになり、しだいに監獄化していくことになる。
「人足寄場」というアイデアが出されたのは寛政元年(1789年)のこと。
寛政の改革を断行していた首席老中松平定信が、無宿人収容の必要性から「無宿収容施設開設提案」を幕府内で募ったところ、ひとりの男が名乗り出た。
定信の自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』に「ここによつて志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ」とある。これが長谷川平蔵だった。