私がそれに1番最初に気づいたのは、姑(イタリア人の夫の母)と「白いご飯に塩が入ってない!」と大騒ぎになったとき。

「お米には塩は入れないよ」と私が言ったら「入れなきゃ味が分からないじゃない!」と言う。そして「私たちは入れなくても分かる食文化の人間なの!」とバトルになりました(笑)。ごはん1粒からでも味が分かってしまうという敏感さは本当にやばいですよ。感度というか、クオリティが高すぎる。

日本食と自分の漫画は通じるものがある

日本では色んなところに行くと、「これはあえて何もつけずに召し上がってください」というお店がある。それって、調理人が食の伝達者であり、「育まれてきたものをどうやって紹介しようか」「あなた(食材)の持つおいしさをどうやって紹介しようか」と考えている。

撮影=遠藤素子

それって実は、私の漫画家としてのスタイルと似ていると思うのです。私の場合は、自分独自のファンタジックな想像をみなさんに楽しんでもらいたいわけではなく、実在した人物や、実際の歴史をうまい具合に自分で調理して「実はこの時代はこんなに面白かった、この人は本当はこんな人だったかもしれない」というふうに、演出を加えて表現をする。私の漫画作品のほとんどはそんな感じです。

ある意味では、料理人と同じです。だから、日本食に関わる人たちを見ていると、たとえばマグロの持ち味、マグロがどうやって演出されたいかというのを理解しているのが分かる。ただ食べればいいだろう、焼けばいいだろうではない。食材の使命を人間がちゃんと分かり、料理している意味では日本食はすごいなと思います。

やはり日本では、食材にただならぬリスペクトを感じるんですよね。ただ食べて腹を膨らませればいいのではない、という姿勢がどの国の料理よりも強く感じられる。食材に対し上から目線ではなく、ありがたいというのがある。一口一口から慈しみが伝わって出てくるのが、日本式の「おいしい」なんだと思う。

地域と伝統を重んじるのがイタリアの食

――イタリアの食文化についてはいかがですか。

イタリア人は、誰が来てもオープンハンズで、誰でもフレンドリーに受け入れるというイメージが定着しているようですけど、あれは本当に違います。彼らは人間に対して疑い深く、明るくしているけど内心では相手を、時には家族ですら信じていなかったり。様々な不安や疑念も当たり前に抱え込んで生きています。

やはり、古代ローマ時代以降、他国によって侵略されてきた歴史が長いからかもしれません。イタリアという国家が統一したのはわずか約150年前。その前はすべて自治国家で分かれていましたからね。

だから、食べ物の呼び名も本来は共通しているのに、たとえば「ズッパ・ディ・ペッシェ」という魚のスープは、地域によっては呼び名が全然違うんです。要するにズッパ・ディ・ペッシェじゃん! と言うと、「うちではカチュッコ(トスカーナ州での呼び名)っていうんだよ」と訂正する。そこは曲げない。

トマトも、地域や形状によっての使い分けがはっきりしている。うちの姑のように市販のものは信用できないと、自分の家で栽培したものしか使わない人もいます。一概にトマトといっても、サラダやトマトソースに使う品種はそれぞれ違うのです。