組織整備に代表される仕組みを機能させるためには、健全な思考様式や行動規範、物事の重要性に関する適切な優先順位付け、組織文化、道徳心などが不可欠なのである。暴走した経営者、適格能力が欠如した経営幹部、公私を混同するトップマネジメントを退席させるためにも、ルールを機能させる良識的な判断と行動が必要となるのである。

いくらコーポレート・ガバナンス体制を整備しても、問題の発生を未然に防ぐことはできない。だとすれば、問題のある経営者を排除するにはどうすればいいのだろうか。そのヒントは、優れた商人を輩出した近江商人の家訓にある。

近江商人の家訓に記された「押し込め隠居」とは

近江商人とは、江戸時代に日本全国、明治時代に入るとアジアへと活躍の舞台を拡大した起業家集団である。天秤棒を担ぎ、全国を行脚して品物を売りさばいた小商人であると思われているが、実は、地方のよろず屋などに販売を委託する組織的なビジネスを行い次第に大商人に成長していった大商社、例えば、伊藤忠商事や双日、これが近江商人である。

さて、近江商人は家訓で「押し込め隠居」の規定を設けていたところが多い。誠実な商売を継続することで社会貢献をした結果として得られるのが家の財産であり、それを危うくさせる適切ではない言動や行動をする者は、それが当主であっても排斥する必要がある。

「押し込め隠居」とは、後見人や親族が、経営のトップにふさわしくない当主を強制的に排除する仕組みなのである。歴史的にみると、この家訓が実行に移された事例も少なくない。後見人や親族のみならず、奉公人や別家と呼ばれるのれん分けを受けた店舗経営者が、隠居をせまったケースもある。

「押し込め隠居」は、現代風にいえば、代表取締役解任ルールである。現行会社法では、取締役会構成員の半数以上が出席した取締役会で、過半数の同意によって代表取締役の解任を決議し、株主総会に議案を提示し株主決議を持って議決するというルールである。「押し込め隠居」に近いルールは現在にも存在するのである。

ルールの実行を可能にした近江商人の誠実さ

ここで注目すべきは、ルールが機能するかどうかである。江戸時代の近江商人のなかにも、モンスター化した経営者、事業継承を受けたにもかかわらず家の財産を浪費する(私的流用)する当主もいた。家訓というルールの存在とともに、それを実行に移すことができる良識的判断ができる思考様式があり、正しい選択を行う行動規範が機能した。その根底には、近江商人の誠実さ(honesty)がある。人や組織に対して誠実であれば、定められたルールを粛々と実行に移すことができる。たおやかな「誠実」というソフトパワーを束ねることでのみ、ルール運用を阻む強力なパワーに打ち勝つことができるのである。

近江商人は誠実さを、生涯にわたる教育、質素倹約の思想、厳しい勤務評定と結びついた昇進システムなどを通じて身につけた。初等教育は寺子屋で行われた。読書・習字の教材には、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)や孝教などの儒学書が使用され、それらの読み書きを通じて、社会規範、倫理、思いやりの精神、公正性、調和の重要性を学んだ。

また、ビジネスの基礎となる算術の教育も行われた。これは、複式簿記で独自に創案した近江商人の会計記録の理解と会計責任(accountability)の意味を理解することに役立った。

丁稚として奉公に上がるにあたっては、身元保証人は「奉公人請書」を商家に差し入れることになるので、12歳前後の子供とは言え能力と資質がない者は、奉公にあがることさえできなかった。奉公に上がったのちは、先輩や同期、上司である手代や番頭、さらには当主の妻などからビジネスのみならず、万事にわたる多くのことがらを学ぶとともに、OJTを通じて知識と経験を蓄積していった。

親戚縁者への私的便宜を図ってはならないこと、昇進しても決して奢らないこと、不正に対しては毅然と立ち向かうことなどは繰り返し教え込まれた。

入店後5年ほどの住み込み生活を送ったのち、「初登り」と呼ばれる初めての長期休暇が与えられる。この期間中に人事考課を行われ、場合によっては解雇されることもあった。日々の仕事への取り組み姿勢(節約・勤勉を意味する「始末してきばる」)や成果、同僚・先輩・上司とのコミュニケーション能力の向上などを総合的に評価する仕組みの存在は、正直にそして熱心に仕事を取り組むことの重要性を奉公人に伝える役割を果たした。