「数字」は法律を通すための素材だと思っている

さらに年明けから大騒動になったのが、毎月勤労統計をめぐる不正問題である。統計手法を勝手に変更してそれを隠し続けてきたこと、公表せずに修正しようとしていたことなどが明らかになった。さらには統計対象の入れ替えで、賃金の伸び率を高く見せようとしたのではないか、という疑惑も生じている。

加えて、統計の不正を調査した厚労省の特別観察委員会の独立性や調査方法に対する疑問が噴出する事態にもなっている。

こうした相次ぐ「数字のごまかし」はなぜ起きるのだろうか。

1つは、数字に対する感覚の鈍さだ。最近でこそ、EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング、根拠に基づく政策立案)が言われるようになってきたが、霞が関では伝統的にエビデンスを軽視する傾向が強い。合理的な根拠を調べてから政策を打つというのではなく、官僚が頭で考えた自分たちのやりたい政策を実行する。数字、データはそのための補完材料だという考え方が染み付いているのである。

よって、自分たちがやりたい政策に都合のよい数字を取り上げ、都合の悪い数字は使わない、といったことがしばしば起きている。時には、自分たちに都合の良い数字を「作る」ことも厭わない。数字は法律を通すために国会議員を説得するための素材にすぎず、法律さえ通ってしまえば、あとは関係ない。それが官僚組織では伝統的に許されてきたのだ。

「辻褄合わせ」と「忖度」が蔓延している

政策決定に当たってエビデンスのデータがしっかりしていなかったら、通常なら困るのは自分たちである。だが、霞が関の場合、法律を通すところまでは注目されても、その政策がどれだけの効果を上げたかという成果分析はほとんどなされない。つまり政策の失敗が追及されることはないのだ。だから、根拠となる数値がいい加減でも官僚は気にしないのだ。

民間企業ならば新商品を発売するためのマーケティング調査がいい加減な数字だった場合、会社に大損害を与えることになりかねない。開発担当者が製品化したいために市場調査の数値を捏造したら、発覚すれば即クビものだ。だが、霞が関の場合、統計の不備や不正でクビになった人はまずいない。

実際にあった話だが、大臣に「こういうデータはないのか」と厳しく叱責され、泣く泣く不適切なデータ加工を行って大臣に出した、という例もある。政治家の答弁との整合性を合わせるために、データを修正することもある。「辻褄合わせ」と「忖度」が蔓延しているのだ。官僚もこれまでは厳しく責任追及されることがなかったので、こわもて大臣の要求に安易に応じてしまうわけだ。