背後に堺屋さんがいてくれたから、インテリ層からの徹底攻撃がなかった

そのときの僕の選挙相手は、元大阪大学大学院教授の熊谷貞俊氏。その実兄は大阪大学総長でもあった熊谷信昭氏。この熊谷ファミリーは関西財界とも非常に親しい間柄で、バリバリのインテリグループ。

関西財界はもちろん、今では大阪維新の会の吉村洋文大阪市長とがっちりタッグを組んでいる建築家の安藤忠雄さんも、当時はもちろん熊谷ファミリー支援者。まあこれは、人間関係の積み重ねによることだから仕方がないんだけどね。僕は、それまで関西財界や安藤さんたちと何の人間関係もなかったんだから。

堺屋さんの立ち位置からすれば、当然、熊谷さんを応援するものだと大阪の誰もが思っていた。ところが堺屋さんは、僕のようなアンちゃんを応援する。ここが堺屋さんらしいよね。

そして関西財界、安藤さんたちのグループが、熊谷さんを応援するにしても、堺屋さんの顔をつぶさないように、僕に対する徹底攻撃は回避したんだと思う。

(略)

僕は大阪都構想を実現するために、大阪維新の会を結成し、その後国政政党日本維新の会を作った。メディアを通じて、適当な学者連中は好き勝手に批判してくれたが、堺屋さんは目的達成のための手段としてしっかり理解して下さった。

「そんなことをやろうなんて、普通はバカにされるだろうね。でもそれくらいのことをやらないと、今の大阪は変わらないね」

誰かがやったことを、後からあーだこーだと批評することは誰にでもできる。また、単なるアイデアを披露することも誰にでもできる。しかし正解が分からない中で、自分で道を切り開き、実行していくということがどれだけ大変なことか。やってみなければ分からない。失敗する可能性もある。それでもやらなければ何も動かない。

1970年大阪万博を、苦労に苦労を重ねて実行した堺屋さんだからこそ、僕の考えを理解して下さったんだと思う。