「見てしまう可能性」を踏まえてみる

子供から不適切なモノへのアクセスを完全にシャットアウトすることは不可能だ。ならば思い切って発想を転換し、最初からエルサゲートを見てしまう可能性を考慮に入れてみてはどうか。

もちろん近年のネット社会は、一昔前よりも「不適切」の度合いが増しているとも言える。現代の子供は、ごく幼い時期からアダルトなものや凄惨な事件の画像、動画などにアクセスできるような環境にある。それ故に、不幸にも子供がエルサゲートに出会ってしまった時にこそ、そのショックを中和する親の対応が必要とされるのだ。

子供は時に、日常に慣れた大人からは生じてこないような、素朴で鋭い問いを投げかけることがある。だがコンテンツに接したことから発せられる問いに、コンテンツは答えてくれない。だからこそ重要なのは、そのような子供の問いや感性に適切に関与できる親なのだ。

親による「免疫化」で立ち向かう

そのように考えれば、エルサゲートをみてしまった場合、親には子供が何を感じ、それがどのような問題を引き起こし得るか、そしてどのような言葉をかけてショックを中和させるかが求められる。より好意的に解釈するならば「ピンチはチャンス」、つまり、そのような問題が生じたときこそ、子供の思考に親がより積極的に関与できると考えるべきではないか。

社会学者の宮台真司氏は「隔離より免疫」と述べたことがあるが、良いことも悪いことも、子供から完全に隔離することは(特にネット社会においては)困難だ。上述のように、ネットによって過激なものに接近しやすい社会にあっては、免疫を考えるより隔離した方が合理的だと考えてしまいがちにもなる。

だが、である。エルサゲートに対しては、見てしまう確率を考慮に入れた上で、万が一エルサゲートに子供が接した時に、どのような「免疫化」を行い得るかをこそ、親は考えるべきではないだろうか。例えば、予め親を中心とした関係者でエルサゲートのリスクを確認し、残虐なものを子供が見てしまったときに、どのようにその内容を否定できるかを話し合うことはできるだろう。そしてそのような話し合いは、子供の教育方針や、親同士の感覚を確認し合う作業でもある。そう考えれば、エルサゲート対策は、多くの事柄が議論できる機会とも捉えられはしないだろうか。

「何をきれい事を」と思う読者もいるかもしれない。実際そうかもしれない。しかしながら、「ピンチはチャンス」と肯定的にでも捉えなければ、被害者は一方的に被害を被るだけになってしまわないだろうか。それこそ「金儲け」や「いたずら」を目的とした、エルサゲート製作者の思う壺になってしまわないだろうか。アンパンマンマーチではないが、「そんなのは嫌だ!」。

冒頭に述べたとおり、問題の根本的な解決は難しい。だが、少なくとも免疫化という考えが、問題に立ち向かう一助になれば幸いである。

塚越 健司(つかごし・けんじ)
情報社会学者
1984年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。拓殖大学非常勤講師。専門は情報社会学、社会哲学。インターネット上の権力構造やハッカーなどを研究。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)などがある。近刊に『アメコミヒーローの倫理学 10人のスーパーヒーローによる世界を救う10の方法』(翻訳)、『愛と欲望のネット処世術』(単著)がある。
(写真=iStock.com)
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