城を単体ではなく「ネットワーク」でとらえてみる

城めぐりの上級者編として、単体の城を見るだけでなく、いわゆる「城郭ネットワーク」という視点で近隣の城を含めて見ることをお勧めします。

中世の城は山頂に築かれることが多かったので、1つの城に登れば近くにある別の城も見ることができます。城ごとの距離感もつかめるし、諸城が果たした役割にも理解が及びます。

たとえば、長野県上田市の真田本城からは、真田氏が本領とした上田平が一望の下に望めるのですが、諸城の位置関係をつかめると、上田合戦における真田昌幸の構想が手に取るようにわかります。また逆に上田平の戸石城から真田本城のある真田盆地方面を望むと、真田昌幸がいかに周到な軍略家だったかを知ることができます。

城とは、戦国大名のさまざまな戦略目標を達成するために作られます。それを地形と共に読み解くことで面白さは倍増します。

唐沢山城(栃木県佐野市)の高石垣

自軍の強みを城づくりにも活かした戦国大名たち

籠城戦のイメージが強いためか、城は「守りに徹するための拠点」という通念がありますが、そればかりではありません。

たとえば、甲州武田氏は他国への侵略を得意とした攻撃型の戦国大名でしたが、武田氏が築いた城は陣前逆襲を常に意識しています。つまり敵が攻めて来たら、縄張り(城の設計)の妙で敵を損耗させた上で反撃を行うという前提で築かれています。武田氏は、自分たちの強みである「攻撃力」を意識した城造りをしているのです。

籠城戦に耐え、本国から後詰(ごづめ)決戦にやってくる主力部隊を待つというセオリーが成り立たない場合、つまり何らかの事情で本国から後詰勢がやってこなかった場合でも、単体の城だけで敵を損耗・撃退できるようにしてあるわけです。

一方、武田氏のライバルの北条氏は、拠点である小田原城を中心に巨大な城郭ネットワークを構築し、その蜘蛛の巣の中に敵を引き込むことで、敵に損耗を強いて撃退するという戦い方を編み出しました。北条氏は、「チームワーク」という自分たちの強みを生かした戦い方を徹底しようとしたのです。

この城郭ネットワークにより、北条氏は上杉謙信と武田信玄の来襲にも耐え抜き、両者を関東から追い落とすことに成功しました。ところが、さすがに天下軍を組織し、無類の兵站(へいたん)補給力のある豊臣秀吉にはかないませんでした。豊臣家の兵力と兵站能力が、北条氏の城郭ネットワークによる防衛構想を打ち砕いたのです。

このように、城といっても戦国大名ごとに多様性があり、その多様性は自らの強みに裏打ちされていることが多いのです。これはビジネスも同じで、ライバルをいかに自分の強みに引き込むかで、事業やプロジェクトの成功確率は格段に違ってきます。