善悪の境目は曖昧だ。たとえばゾゾ前澤社長の行った「お年玉1億円ばらまき」は、そのアイデアを評価する声もある一方で、批判の声も上がった。哲学者の小川仁志氏は「人々を純粋に幸せにしたいなら善だが、たんなる商売上手なら悪だ」という。その理由とは――。
(写真=AFP/時事通信フォト)

「善悪とは何なのか」という難問

今世の中はますます複雑になってきています。テクノロジーの進化もあって、どんどん新しいことが出てくるからです。そのなかで私たちはどう判断するべきか、日々悩まされています。とくに善悪が絡む問題はかんたんに答えが出るわけではないので、とてもやっかいです。

投資の判断から画像の診断まで、なんでもAIの指示に従うようにはなってきていますが、善悪の判断だけは、そう簡単にはいきません。自動運転の技術の進化と比べて、事故の責任をどうするかという問題については、まだ議論が紛糾しているのがその証拠です。

この判断が難しいのは、そもそも「善悪とは何なのか」という問題に関係しています。私たちは子どものころから、人様に迷惑をかけてはいけませんと教わってきました。たしかに悪いとされる行為は、常に誰かに迷惑をかける結果になっています。人を傷つける、人を困らせるといった行為です。

ただ、同じ行為でも、人によって迷惑だと思ったり、そうは思わなかったりすることがあります。だから自分はいいと思ってやっても、それは悪い行為だといわれて困惑することがあるのです。これは善悪という概念が相対的であることを物語っています。

共同体の中で一緒に生きていくために

セクハラなどはそうですよね。本人はこれくらい大丈夫と思っても、相手が不快に思ったらもうだめなのです。あるいは、企業の不祥事でも、「よかれと思ってやったのですが」などという言い訳がよく聞かれます。本人は本当にそう思っていたのでしょう。

よく考えてみれば、善悪の境目があいまいなだけでなく、悪などというものが実は存在するのかどうかが問題なのです。というのも、ある行為が時代や文化の違いによって犯罪になったり、ならなかったりしています。殺人でさえそうです。死刑だってそうですよね。

人を殺すことでさえ、絶対的な悪だとはいえないのです。それは人間社会の中で禁じられているだけのことです。なぜか? 自由に人間を殺していいということになると、共同体が成立しなくなるからです。逆に、日本のように死刑が認められている国があるのは、そうでないと共同体が成立しないと考えているからでしょう。人を何人も殺したような人間が、仲間として同じ共同体に生きているのはおかしい。そう考えるからなのです。

つまり、善悪の概念自体は相対的なものですが、共同体の中で何が善悪なのかを決めることは可能だということです。それに、そうしないと共同体の中で一緒に生きていくことができないということです。