いわば「昭和の喫茶店マスター」の出世頭

サザコーヒーの開業は1969年で、日本は高度経済成長期だった。喫茶店も「町の個人店」が中心の時代。当時は個人で開業する人が多く、男性店主は「マスター」、女性店主は「ママ」とも呼ばれた。

店主と常連客との人間関係は今よりも濃密で、「みんなで温泉旅行に行って親睦を深める」といったことも珍しくなかった。企業系のコーヒーチェーンが増えるのは1970年代からで、「ドトールコーヒーショップ」の出現は1980年、「スターバックス」上陸は1996年だ。

だが、昭和時代に人気を呼んだ多くの個人店は残っていない。理由はさまざまだが、多かったのは、業績の下降と後継者の不在。特に店主や常連客の高齢化によって、店を閉じた。

つまり、鈴木氏が会長、妻の美知子氏が社長を務めるサザコーヒーは、昭和の「喫茶店マスターとママ」の出世頭なのだ。なぜ出世頭になれたのか。

サザコーヒーの焙煎機と鈴木誉志男会長。

「コーヒーへのこだわり」と「話題性」

それは「コーヒーへのこだわり」(モノづくり)と、「話題性のある仕掛け」(コトづくり)の両輪が機能した結果といえよう。手法はビジネススクール的ではなく、商人道に近い。

鈴木氏はもともと映画館経営者の息子として育ち、現在のサザコーヒー本店(ひたちなか市)は「勝田宝塚劇場」という映画館だった。大学卒業後、東京楽天地に就職して映画の興行プロデューサーを数年務め、帰郷して映画館の一角に「7坪・15席の店」を開いた。

「映画が斜陽産業となり、その打開策として喫茶店を始めた」と鈴木氏は語る。半世紀の間、喫茶店一筋ではなく、若い頃はラーメン店も経営した。コーヒーの焙煎を専門誌で勉強し、海外の生産地も訪問。地元・ひたちなか市の煎餅店で焼き方を学んだ時期もあったという。

品評会で審査をする副社長の鈴木太郎氏。

サザコーヒーは100種類を超えるコーヒー豆を販売している。「徳川将軍珈琲」や「五浦(いづら)コヒー」など話題性のあるコーヒーのほか、現在最高級のコーヒー豆「パナマ・ゲイシャ」も扱う。ゲイシャに目を付けたのは太郎氏だ。日本人として最も早い時期にゲイシャの価値を評価しており、いまでは海外の品評会に国際審査員として招かれている。そうした新しもの好きの社風に、コーヒー好きの若手社員が集まるようになった。

商品開発や話題性については、鈴木氏の次の言葉が興味深い。

「東京楽天地時代、映画館にお客を呼ぶためには、話題性をつくることの大切さをたたきこまれた。公序良俗に反しない限りは何を仕掛けてもよい、という教えでした」

「映画が人々にもたらすものには、感激と感動があることを知りました。『感激』は画面が直接もたらすもの、『感動』は見終えても余韻として残るもの、といえます。映画人時代の経験をコーヒーの仕事にも応用しているのです」